決断の時

マックスウェル.テイラー将軍率いる使節団が南ベトナムから帰国すると、ワシントンはいよいよ切迫した空気に包まれた。使節団の勧告によれば、東南アジア条約機構(SEATO)軍の投入か、さもなくばアメリカによる軍事介入こそが、「南ベトナムと、東南アジア全土を確実に救う最善の手
段」であった。11月初め、サイゴンの米大使館がひそかに探ったところでは、南ベトナムの主要都市であるサイゴンやユエ周辺では、ベトナム人はおおむね米軍部隊の導入に賛成している模様だった。しかし、部隊投入のまたとない口実となるはずの洪水は、11月下旬までには引く見込みで、アメリカは決断を急がなければならなかった。テイラー将軍がケネディ大統領に直接勧告書を手渡したのは、11月3日午後四時すぎ。この瞬問、「彼(ケネディ)が私に最も出してほしくなかったのは、米地上部隊導入の勧告だと知った」と、テイラーは述懐している。チェスター・ボウルズ国務次官も、ケネディがこの地域への大規模な軍隊投入を躊躇している、と受け止めた。翌日、テイラー勧告を検討した会議でも、大統領は「米軍導入には直感的な反対を示した」と記録されている。ちょうど箱根で開かれた日米貿易経済合同委員会に出席していたディーン・ラスク国務長官は、1日、ワシントンに電報を送った。今回のベトナム支援策によって「わが国が事実上ベトナム問題について直接関与を迫られる」可能性があるとし、憤重な対処を訴えたのである。ラスクの懸念は、ゴ・ジン・ジェムの統治が変わらない限り、「比較的少数の米軍部隊が決定的な影響力を及ぼしうるとは考えがたい」という点にあった。もちろん東南アジアの防衛は重要である。しかしなお、「アメリカの威信を負け馬に賭けることには消極的」にならざるをえなかった。政権外では、マイク・マンスフィールド民主党上院院内総務が、ベトナムの「流砂」に強い恐怖を感じている。彼は「この種の介入はどこが終点なのか?広東か?北京か?」との疑問を払拭できずにいた。同盟国の支持もないまま、「共産勢力の第三弦」にすぎない北ベトナムや、「第二弦」の中国との軍事衝突に直面する危険もあった。アジアを中心に、植民地主義的介入への非難は避けられないし、いつ危機が再燃するかもしれないベルリンの守りが手薄になる恐れもある。かつてジェム政権の擁立に奔走したマンスフィールドは、この独裁者をよく知っていた。ベトナムからフランス軍を追いだすのだという、「ほとんど強迫観念に近いもの」にとりつかれていたジェムが、今度は米戦闘部隊を熱望するというのは、マンスフィールドにはどうにも解せなかった。しかも、共産主義者を打ち破るのに必要な改革は、過去七年間放置されたままであった。いまさら米軍が登場したところで、それが実現できるとも思えない。要は、戦いの重荷を「南ベトナム人の肩の上にのせておく」ことだ、とマンスフィールドはケネディに説いた。

中立の東南アジアを

ケネディがハーバード大学から駐インド大使に迎えた経済学者ジョン・ガルブレイスは、11月初め、ネルー首相の訪米に合わせて一時帰国していた。大使も、ベトナムの現状が「後戻りのきかないところに、危険なまでに近づいている」と感じる一人であった。軍事介入という策に飛びついてしまえば、アメリカは国連の支持もなく、そして肝心の南ベトナム国民には戦い抜く決意もない、という羽目に陥るに違いない。そこで彼は、南ベトナムの独立を維持し、経済発展の道を確保する手段として、「中立の国家づくり」を提唱した。まず戦闘停止、国連の監視を実現し、「強力な、国民の要求に対応できる、国民に立脚した政府」の樹立を図る計画であった。そのためにはネルーに仲介を依頼してはどうか、とガルブレイスは考えた。ボウルズ国務次官、ジュネーブ会議米代表のアベレル・ハリマン、国務省法律顧問のエイブラム・チェイズといった人々も、ベトナムの中立化実現に活路を求めた。しかしケネディ政権内では、こうした主張はたいして影響力を持てなかった。それでもボウルズは、組織だった米軍部隊の派遣は「重大な問違い」だと確信していた。アメリカが東南アジアで新しい力の均衡を確立し、しかも共産側との直接対決を回避するには、「インドとアメリカ、ソ連、さらに少なくとも公式には中国が保証する、中立かつ独立の東南アジアを創設する以外にはない。スペインは大西洋を隔てたフロリダ半島を植民地としていたが、1819年、アメリカに明け渡した。同じように、太平洋のかなたに位置するアジア大陸で、アメリカが中国の巨大な圧力に対抗できるはずはない。「非共産主義のアジア人たちが支える中立ベルト地帯」をつくることが、共産中国封じ込めの「われわれの最良の希望の一つ」である。ボウルズは必死に説いたが、問題は、それが「わが国の現在の立場と正反対」なことであった。フランスのドゴール大統領は1961年から非公式に、63年夏以降はおおっびらに、ラオス中立化を今度はベトナムにも拡大すべきだと主張した。コンゴ紛争調停中にアフリカで不慮の死をとげたダグ・ハマーショルドの後を継いだ国連事務総長、ビルマ人のウタントも、のちにベトナムを含むインドシナ半島の中立化を提案している。束南アジアの紛争地域の中立化は、軍事介入よりはるかに現実的だったし、もし実現していればおそらくアメリカにとって最善の解決となっただろうともいわれる。1962年、長い内戦の果てに、東西両陣営の合意にもとづいて中立化を実現したラオスが、ベトナムおよび東南アジア全域の中立化の輝かしい先例になるはずであった。しかし、当時駐南ベトナム大使だったフレデリック・ノルティングは、中立ラオス誕生を「災厄」だと考えた。ケネディ政権の事実上の敗北、ないしせいぜい共産主義者の勝利を糊塗するための茶番と受け取る者も少なくなかった。中立化政策を束南アジア全域に拡大するなど、おそらくケネディには無理な相談だったろう。

ケネディ包囲網

11月8日、記者会見に臨んだケネディ大統領は、ゲリラの反乱と大洪水という、南ベトナムの二重の災厄への対処について、「今後数日問、憤重な検討を加えるつもり」だと声明した。この日、マクナマラ国防長官は大統領に、アメリカが「南ベトナムが共産主義の手に落ちるのを防ぐという明瞭な目的にコミットし、必要ならすぐに軍事行動を起こし、ないし将来の行動の準備をすることで、このコミットメントを補強」するよう求めた。マクナマラは、その具体的な「第一歩」としてテイラー勧告を支持する、と言明した。しかし彼はその34年後、この覚書を大統領に提出したとたん、自分が早まったのではないか、と懸念を覚えたと回想している。しかし、ほかにましな手もなさそうであった。テイラーもマクナマラも、軍事問題について大統領が強い信頼を置いていた人物である。この二人が、ベトナムヘの介入拡大、米軍の投入という方向で手を結んだ。それは、国務省のボウルズやボールなど、介入反対論者が太刀打ちできない強力な影響を生んだ、とロズウェル・ギルバトリック国防次官は述懐する。11月4日の会議では、アレクシス・ジョンソン国務次官代理が「米軍部隊投入以外の手段で南ベトナムを救うことができるか?という質問を発していた。もちろん介入論者たちも、米戦闘部隊を使わずに南ベトナムを守れるとすれば、それが望ましいことには異論はない。アメリカが行政面、軍事面で南ベトナム政府の刷新を求め、援助を大幅に拡大し、米軍事顧問の役割を増大させ、洪水救援などにアメリカの資金を大々的に投入し、中立国を含む諸外国の支持と関与を促進する、といった行動をとれば、介入と同様の効果をあげることも期待された。ただ、そうした「希望をもとに政策を形成することはできない」というのも、無視できない事実に見えた。米軍を投入したうえで、「なんらかのチャンネルをつうじて、ベトコンヘの支援継続は北ベトナムに対する懲罰的報復を招く、とハノイに警告する」のがよいだろう。ハノイも北京も大きな弱点を抱えており、アメリヵの軍事介入にともなう危険はさほど大きくない。なによりも、いまアメリカが用いるべき手段には、「軟弱な手などない」のだと、マクナマラは断言した。ノルティング米大使も11月6日、サイゴンから、「これ以上国外から武力を用いてこの国の奪取の企てを続ければ、北ベトナムに対するアメリカの直接行動に直面することになる」という厳粛な事実を、はっきりと共産側に知らしめなければならない、と訴えていた。15日になるとラスクは、「北ベトナムでも最重要な中枢」であるハノイヘの攻撃を示唆している。もちろん、深刻な政治的問題を生じさせることは百も承知のうえである。11月4日の会議に出席したリチャード・ビッセルCIA副長官(作戦担当)は、ラオスでの対応とは正反対の、「言葉ではなく行動の表れ」だという理由から、テイラー勧告を高く評価した。ビッセルはこの年の夏から秋にかけて、情報や秘密工作などの分野でケネディに助言を与えていたが、ほどなくダレス長官とともにCIAを去らなければならなかった。いうまでもなく、(ビッセルによれば)ケネディの優柔不断のために敗北を喫した、キューバ侵攻の責めを負わされた結果である。ラスク国務長官やマクナマラ国防長官ば、アメリカが「必要ならいかなる規模でも、米戦闘部隊を投入する意欲」を固める必要がある、と感じていた。かりに介入しても、兵力が不十分では、南ベトナムの喪失を阻止できる見込みは「おそらくかなり薄いだろう」と彼らは悲観していた。統合参謀本部にいたっては、テイラー勧告のいう米戦闘部隊6000人ないし8000人の投入を、「必要になればその後に行われるはずの、さらに多くの兵力増強の一部」と割り切っていた。事態を放置すれば、まず南ベトナムが陥落するだろう。ついで東南アジア全土で、「かなりの速度で共産主義者の支配が拡大するか、共産主義への完全な同調が見られることになるだろう。全世界への戦略的影響はきわめて重大であろう」という危険が目に見えていた。もはや行動を思いとどまってはならない。際限のない泥沼が前途に横たわっているとは思えなかった。共産側は補給などの面で問題を抱えており、アメリカは最大6個師団20万5000人の兵力で対応できるはずであった。それ以上に、アメリカが「いかなるレベルでも、東南アジアでの侵略に正しく対処する用意を整えている」ことを敵の脳裏に焼きつけさえすれば、以後、敵の行動を抑止できるに違いない。デイビッド・シャウプ海兵
隊司令長官はのちに、統合参謀体部が敵の過小評価という、「軍司令官にあるまじき、最も愚かなことをした」と、強く批判している。米軍首脳はこの時期、軍事行動の時期や秘密保持の方法、偽装(ホノルルの防御強化のため、あるいはフィリピンでの大演習のためなど)に心を奪われていた。ラスクは大統領特別補佐官のマクジョージ.バンデ一に、ラオス問題解決を容易にするカギは「ベトナムで行動を開始するやり方しだい」だと述べている。アメリカが南ベトナムに軍事介入すれば、敵側が再度ラオス介入という手に出る危険もあった。しかし、たとえアメリカが介入を自制し、ジュネーブで「協定が成立したところで、その可能性はなくなりはしない」と、マクジヨージの兄、ウィリアム・バンディ国防次官補はマクナマラ国防長官に述べている。すべての材料が、ケネディに行動を促しているかのようであった。11日、ラスクとマクナマラは連名で、南ベトナムが落ちれば、「これ以上東南アジアの重要性を議論しても無意味になるだろう」と大統領に書き送った。東南アジア諸国は共産側に同調し、SEATOは崩壌し、アメリカヘの信頼は傷つき、アメリカじたいの国論も分裂するだろう。「いまや南ベトナムを共産主義の手に失うのを防ぐという目的にわが国がコミットする決定をくだす」べき瞬問がやってきた。

介入へのお膳だて

テイラー将軍はのちになって、1961年秋、アメリカの軍事介入に「強く反対した者は、一人を除いて誰もいなかったと思う。その一人が大統領だった」と回顧している。1963年にジェム大統領を見捨てたとしてケネディを糾弾するノルティング駐南ベトナム大使も、軍事介入についてはケネディが助言者たちと「明確な一線」を画していた、と認めている。とはいえケネディは、はっきりと介入の可能性を断ち切ることもしていない。大統領の側近中の側近セオドア・ソレセンがいうように、ケネディは介入論者に、この年春のラオスとキューバ、夏のベルリンの時のように、後になって弱腰を非難されるような余地を与えまいと苦慮していた。ボールも、ケネディは「戦争に深く関わり合いたくないと考えていた」けれども、同時に「臆病者だとも思われたくなかった」のだと述べている。ケネディの周囲では、派兵の決断を求める声がますます高まった。11月22日、ラスクはフランスのアルファン駐米大使に、危険がともなうのは承知しているが、派兵しなければ危険はさらに大きくなる、と述べた。東南アジアが失われれば、「世界中のわが同盟が影響を受ける」というのである。ラスクはこのとき、アメリカは西ヨーロッパ諸国とは異なり、「大西洋ばかりでなく太平洋のかなたにまで目を向けねばならない」国だといっている。ジェム大統領をはじめグェン・ゴク・ト副大統領、グェン・ジン・トゥアン国務相、グェン・カーン陸軍参謀総長ら南ベトナム政府と軍の首脳、閣僚や議員たち、そして国民も、米軍介入を支持するだろう、それどころかアメリカの行動を心待ちにしているアメリカ側はこう考えていた。タイのサリット・タナラット首相、マラヤのトゥンク・アブドゥル・ラーマン首相、シンガポールのリー・クアン・ユー首相といった、東南アジア各国の指導者たちの支持も計算に入れていた。なかなか介入に踏み切ろうとしない大統領に業を煮やしたロバート・ジョンソンは11月14日、ロストウに、テイラー使節団を派遣したために「世界はベトナムの危機に気づかされた」と指摘、いまや敵も味方も、アメリカの言葉ではなく行動を見守っていると力説した。「たとえいま戦闘部隊を導入しないとしても、必要になればそうする用意がわが国にあるかどうか」が問題なのである。ロストウの懸念もつのるばかりであった。共産側に1954年のジュネーブ協定をきちんと守らせ、南ベトナム国内のゲリラの脅威を減少させるには、「本腰を入れた協議、それもおそらく公式の交渉」が必要だろう。だが困ったことに、交渉が続く問はアメリカは行動に移るわけにはいかない。ところが、そうなればアメリカは共産主義との対決を避けている、というイメージができあがってしまう。その結果、ベトナムをはじめ東南アジア全域で「本物のバニックと無秩序」がもたらされるに違いない。マクジョージ.バンディは、ラスク国務長官も似たようなことを危慎しているとケネディに伝えた。つまり、アメリカの行動が成功するかどうかは、敵が、「わが国が東南アジア保持に本気だと信じるかどうかしだい」であり、したがって「あらゆる当事者にわれわれの決意のほどを示さなければならない」。テイラー使節団にも加わったエドワード・ランズデール准将は、アメリカはラオスで軍事行動の好機を見逃して、すべてを手遅れにしてしまったと考えていた。22日にラスクも、米軍投入による紛争拡大を懸念するアルファン仏大使に向かって、「ラオスでの出来事をベトナムでもう一度繰り返すことはできない」と述べている。

最終決定を延期

介入論者の焦りはつのった。11月に入って洪水が急速に引き始めたからである。ワシントンの緊迫した空気を感じとったサイゴンのノルティング大使は、緊急の帰国を願いでた。しかしラスク国務長官は、「時問が決定的な要因」である今ノルティングはサイゴンにとどまり、計画実現の前提である「ジェムとの複雑かつ微妙な交渉を個人的に、また早急に行う」よう命じた。11月22日の会見で、ラスクはフランスのアルファン大使に、「洪水が引ぎつつあるので、洪水救援部隊派遣の考えは却下された」と伝えた。翌日、ロバート・ジョンソンはロストウに、アメリカが「米軍部隊導入の戦略的な時機を逃しつつある」のではないか、という懸念を表明した。11月15日午前10時から、一時問半にわたって国家安全保障会議が開かれた。出席を予定された者のうち、ジヨンソン副大統領は悪天候のために出張先のデトロイトから戻れなかった。ケネディは副大統領の意見も聞きたいと、軍事介入について最終的決断を延期した。しかし、すでに見たように、政権内で副大統領は必ずしも優遇されていなかったし、その意見が尊重されていたわけでもなかった。副大統領の不在は、決断を先延ばしにする口実にすぎなかった。実際にその二日前、ジヨンソン国務次官代理はテイラー大統領軍事顧問に、「すでに決定は行われているのだから、いまさら会議を開く必要などない」と伝えている。ラスク国務長官もデイビッド・オームズビーゴア英大使に、アメリカはジェムが共産主義者との戦争に勝てるよう支援するが、その努力はいまや「次の章」に移りつつある、と述べていた。ケネディは、介入論に対抗する具体的証拠を求めて、ネルー首相の訪米にあわせて一時帰国中だったガルブレイス大使をサイゴンに送ったワシントンを出発直前の14日、ガルブレイスはバンディ大統領特別補佐官からは、まだ最終的な決断はくだされていないと、ジョンソン国務次官代理からは、すでに介入政策は若干の修正のうえ決定されたと聞かされていた。それはケネディ自身の心の揺れの反映でもあったろう。