ガルブレイス大使の嘆き

11月18日、ガルブレイス駐インド大使がサイゴンを訪れた。軍事介入論に対抗できる材料を手にしたいケネディ大統領の求めで、ワシントンからニューデリーへの帰途に立ち寄ったのである。ガルブレイスはワシントンで、南ベトナムの「ぞっとするような混乱」を知らされた。ハワイではハリー・フェルト太平洋軍司令官から、「名状しがたい混乱状態」について説明を受けている。南ベトナムの現実を目のあたりにしたガルブレイスは、問題はベトコン(民族解放戦線)の活動とは別のところにある、とにらんだ。戦場で行われているのは、民兵を含めれば25万人にも達する、装備の整った南ベトナム政府軍と、せいぜい1万5000人から1万8000人程度の、軽武装のゲリラとの戦いだったからである。この両者が互角で、下手をすれば政府軍のほうが押されているという事実は、ガルブレイスにはまともには信じられなかった。もしそうなら、アメリカの西部開拓時代、植民者たちに猛烈に抵抗したスー族に対してさえ、アメリカはほとんど安全ではありえないはずだと、彼は皮肉っている。むしろ問題は、非効率な統治にあった。権限の過度の集中、無能な部下、でたらめな軍の動かし方、情報組織の不在、貧弱な経済政策などである。しかもこれまでジェム大統領は、約束した改革を反故にするか、実施したような「影を見せる」だけであった。ガルブレイスは、アジアの独裁者のなかでも「ジェムほどひどい統治者に出会うとは、自分は予期していなかった」と述懐している。もしアメリカの求める改革が実現しなければ、アメリカの南ベトナム政策には「危機の瞬問」がもたらされるに違いない。このままでは、「ヘリコブターも、航空機も、顧問も、すぐに目に見えるような変化をもたらすことはできない」のは自明の理であった。厄介なことに、ジェムに権限委譲、人材活用、政治改革などを求めるのは、「政治的に無知すぎる」愚行でしかなかった。しかしすでに「この絶望的なゲーム」を始めてしまった以上、「最小限の時問、それを続けるほかに手はない」と、ガルブレイスはあきらめ顔であった。

感謝祭の大虐殺

この頃ケネディは、ベトナム政策に限らず、政権全体が必ずしも自分の計画や決定を十分尊重していないことをひしひしと感じていた。とくに彼が槍玉にあげたのが、ラオス、キューバ、ベルリン、そしてベトナムと、失望をつのらせられるばかりの国務省である。11月26日、ホワイトハウスは「感謝祭の大虐殺」として知られる国務省の大幅な人事刷新を発表した。この人事の中心は、国務省の組織を一体化し強化するため、大統領とも長官とも肌合いがあわず組織から浮き上がりがちのボウルズ次官を切ることにあった。彼はすでに6月以降たびたび、大統領や長官のラスクから大使への転出を打診されていた。しかも、それを繰り返し拒否したため、ますます立場を悪くしていた。とはいえポウルズの面子をつぶし、政権外から自由にケネディ批判を許すのも得策ではない。そこでケネディは、ボウルズが特使(無任所大使)の地位を受け入れるまで幸抱強く待ったのである。同時にケネディは、ウォルター・マコノーイにかわる極東担当次官補にハリマンを、政策企画委員長にロストウを送り込むなど、外交分野でのホワイトハウスの影響力を拡大した。ベトナム政策との関連では、それは介入論者への牽制であったといわれている。ボールは経済担当次官からもう一段上の国務次官、つまりラスク長官の次席に、マクギーは政策企画委員長から政治担当次官にそれぞれ昇進し、ハリマンなどとともに介入反対の論陣を張った。しかし、アレクシス.ジョンソンがそのまま次官代理にとどまり、政策企画委員長にロストウが起用されたのは、大統領が介入論者に配慮した結果だったともいう。ケネディは、こうした政府内の勢力均衡に気を配りながらも、「ひとたび政策が決定されれば、現場の人々はそれを支えるか、さもなくば去らねばならない。心底からの支持がなくてはならない」と強調した。しかしのちにケネディは、この刷新で「何も改善されなかった」と苦々しく振り返ったという。今後も国務省にはあまり期待できそうにもなく、ベトナムは従来にも増して、政治問題ではなく軍事問題の性格を強めていった。

孤立するケネデイ

ケネディの胸中にはいつまでも、はたして「ベトナムに関与するのが賢明かどうか?」という、根本的な疑問が渦巻いていた。11月15日の国家安全保障会議でも、「何年もの問、莫大な金を注ぎ込みながらなんの成功も得られない、しかも1万マイルも離れた場所に、20万人の現地軍と一緒になって1万6000人のゲリラを相手に介入することについては、むしろ強力な反対論をぶつことができる」と論じていた。ケネディが引き合いに出したのは、キューバである。フロリダ半島からわずか150キロ程度の社会主義政権を放置していながら、太平洋を越えたベトナムに大々的に関与するのはどういうわけか。ところがライマン.レムニツァー将軍は、「統合参謀本部はいま現在でさえ、アメリカはキューバに介入すべきだと考えている」と言明した。アメリカ三軍の最高司令官たる大統領と、軍の最高首脳の問には、深い、深い溝があった。ケネディは、ベルリンにも言及した。ベトナムがベルリンと違うのは、敵味方の戦線もはっきりせず、ゲリラがときに「幽霊もどき」の活動をしていることである。これでは米軍の作戦基地をどこに置けばいいのかさえわからない。せいぜい空母から出撃するしかない、とケネディはこぼした。しかしマクナマラ国防長官は、米軍が介入すれば、ベトコンの力の源泉、すなわち北ベトナムがはっきりと敵になるので、慶昧な戦場ではなくなる、と楽観していた。ラスク国務長官は、むしろ「ベルリンのようなやり方と形で、ベトナムで断固たるところを示す」のがよい、という考えだった。行政府の最高責任者である大統領と、二人の主要な閣僚との問にも、越えがたい溝があった。ケネディは、米国内のきびしい党派的批判を避けるためにも、アメリカ以外の諸国から強い反対を受けないためにも、米軍派遣には同盟国の支持確保が肝要だという確信を表明した。バキスタン、タイ、フィリピン、オーストラリアなどはアメリカのベトナム介入を支持すると見られたが、イギリスもフランスもあてにはならない。ケネディはなお「ベトナムでのような特殊な型の戦争には罠がある」と憤重であった。

自書の効用

ケネディは、中立国を含む東南アジア、とりわけインドの支持を確保しようと努力を続けている。しかしアメリカが支持を期待する中立国の一つ、ビルマのウー・ヌ首相は11月22日、「南ベトナム問題は軍事的手段では解決できない。ベトナムの大衆をジェム政権のもとに強固にまとめあげるのに役立つような手段をつうじてでない限り、解決は不可能だ」とケネディに訴えた。米軍派遣という。「きわめて重大な誤り」をおかさぬよう、ケネディに強く自制を求めたのである。ケネディは11月15日の国家安全保障会議で、「協定違反の責任を相手側に負わせ、自分たちの行動を弁護する羽目に連中を追い込むような、テクニックとタイミングを工夫しなければならない」と強調していた。しかし世界の世論に反ベトコンの流れをつくるには、まだ時問がかかるものと思われる。これまで以上に、ジョーデンのベトナム白書の効果が期待された。この頃ケネディの内心には、「ジョーデン報告をすぐに流布させるべきではないか?」との気持ちと、「国際監視委員会が南ベトナムでおおいに役に立つとわれわれは本気で考えているのか?」という疑念が混在していた。それでも内外の世論に、南ベトナム国民の大多数が独立を維持したいと願い、ベトコンに抵抗しているのだと示さなければならない。ジョーデン報告の刊行は、今後のアメリカの南ベトナムでの計画に「不可欠な序曲」であった。

国内外の支持に不安

米国民のケネディ支持率は八○バーセント近い高率のままであった。しかし共和党ではバリー・ゴールドウォーター上院議員やウィリアム・ミラー下院議員らが、ベルリンなどでの宥和政策を口をきわめて非難していた。テキサス州ダラスの地元紙『モーニングニューズ』の社長は、こともあろうにホワイトハウスの昼食会で、アメリカは「馬上の男」を必要としているのに、ケネディは娘の「キャロラインの三輸車に乗っている」と述べ、ケネディを激怒させた。この新聞は1963年11月22日朝刊でケネディの「容共」外交を徹底的に糾弾し、死を数時問後に控えた彼を不快のきわみにいたらしめている。1940年以来の21年問のうち、17年以上も下院議長をつとめた南部民主党の重鎮、サム・レイバーンが11月16日に没したことも、ケネディには打撃となった。後任のジョン・マコーマックはレイバーンほど影響力がなかったし、同じマサチューセッツ州出身ながらケネディとの関係もよくなかった(1962年、ケネディの大統領当選で空席になった上院議員の椅子を、大統領の末弟エドワード・ケネディと、下院議長の甥エドワード・マコーマックが争ったため、二人の関係はいっそう悪化する)。こうした状況では、ベトナムで大きな後退があれば、国民の支持も議会の協力もたちまち雲散霧消しかねなかった。ケネディが11月15日の国家安全保障会議で国際的な支持にこだわったのも、べトナム介入拡大策を米国民や議会に支持してもらえるか、懸念したからである。とりわけ「今後二、三週問」がそのカギだとケネディは確信していた。にもかかわらず、「議会の民主党でさえ十分納得していない」ことに、彼は不安を隠せなかった。ケネディは米国内にも世界にも、アメリカが不人気な独裁政権、非能率きわまりない無能な政府を支えているわけではなく、共産主義を嫌悪するすべての国民が、共産主義者の征服に低抗すべく一体となって行っている努力を支えようとしているのだ、と証明しなければならなかった。まずなによりも、「ジェムがいまや秩序だったやり方で部下と仕事をし、政権の政治的基盤を拡大する用意があると具体的な証拠で示すこと」を優先しなければならない。ケネディ政権は、今後南ベトナムを救うための戦いに賭けられたアメリカの威信が、どれほど急激に増大していくか十分承知していた。たしかにアメリカは、現在まで「助言者としての資格でのみ」行動してきた。しかしこれからは、「現在よりもはるかに緊密な関係」が求められている。建前としてはあくまでも主役は南ベトナムの政府と国民だったが、アメリカは「治安状況に影響を与える範囲で、政治、経済、軍事分野で政策決定過程に参画することを期待」した。アメリカがいまや、「ジュネーブ協定のもとでのコミットメントの制約を取り払おうとしている」のは明らかであった。ケネディは11月14日、マクナマラ国防長官に、ラオスとは異なり、ベトナムではアメリカの行動は「消極的ではなく積極的」かつ「実質的」なものでなくてはならない、と述べている。テイラーの述懐によれば、第一歩を踏みだす以上、最後までやり抜く用意が必要だというのが、「ピッグズ湾の最大の教訓の一つ」であった。そしてケネディがこの教訓に異論を示したことは「一度たりともなかった」のである。

マクナマラの戦争

12月初め、ノルティング大使はサイゴンから、過去一年をつうじて敵の損害は五割増しだったが、南ベトナム軍の損害は倍増したと報告した。12月半ばになっても、ベトコンによる村落への侵入、家屋放火、食糧強奪、村民の誘拐、自警団への待ち伏せ攻撃などはいっこうにおさまらず、政府軍の作戦もめだった成果をあげていなかった。マクガー軍事援助顧問団長は、「大規模なベトコンの攻撃がいつ始まってもおかしくない」と見ていた。彼以上に危機。感を抱くジェムは12月18日、二〇歳から三〇歳の男性の軍務適格者全員を徴兵する法令に署名した。12月16日、マクナマラ国防長官、バンディ国防次官補、レムニツァー統合参謀本部議長といったワシントンの国防関係首脳が、大挙してホノルルの太平洋軍司令部を訪れた。サイゴンからは、ノルティング大使とマクガー軍事援助顧問団長がやってきた。フェルト太平洋軍司令官とともに、ベトナムの現状と、将来の計画について話し合うためであった。マクナマラは、南ベトナムの背後にはアメリカの軍事機構が控えている、自分たちは「戦闘部隊以外なら、事実上なんでも使える」と豪語した。すでに国防省や軍は大統領から大きな権限を与えられている、投入される資金にも限度はないと、彼は意気軒昂であった。そのうえでマクナマラやレムニツァーが必要としていたのは、「30日で結果を示し始めるような、具体的行動」であった。ハリマンをはじめ国務省の側は、ベトナム問題への対応に国防省が主導権を発揮しすぎることに警戒を強めた。しかし、この年春にロズウェル・ギルバトリック国防次官がベトナム特別作業班の指揮を任されて以来の傾向には、歯止めのかけようがなかった。マクナマラの影響力はラスクをはるかに凌いでいたし、国務省の能率は国防省に遠く及ばず、ベトナム情勢はますます軍事的危機の様相を帯びていた。バンディ国防次官補の回顧によれば、ホノルル会議前後から、マクナマラがはっきりとベトナム問題の主任担当者となった。これ以降、戦争激化にともなってホノルルで何度か繰り返された会議は、「マクナマラのバンドコンサート」の異名をとった。そしてベトナム戦争じたいが、「マクナマラの戦争」と呼ばれることになる。

地平に広がる暗雲

ケネディの分身と呼ばれ、ケネディ死後は故大統領とその時代の弁護を続けるセオドア・ソレンセンは、ケネディがベトナムでのコミットメントを拡大しつつ、同時にそれを最小限に抑えていたと主張する。しかし、同じソレソセンが、「選択の自由を確保しておくため困難な決定を先へ延ばし、当座は比較的重要でない措置を大勢の流れに沿って出していった結果、彼はベトナム問題全体の流れを逆転させることが、ますます困難になってしまった」と認めている。ケネディの介入過程は、十分な議論も知識もなく、いつの問にか泥沼にはまり込んだ結果だ、ともいう。しかし1961年、質的にも量的にも大幅に介入が拡大していった過程からする限り、ケネディはむしろ前途の危険を重々承知し、少なくとも本能的に察知していた。それは介入拡大、とくに米軍派遣に強い抵抗を示したことを見ればわかる。そのうえでなおケネディは、ジェムの戦争であるべきものを、彼自身の、そしてアメリカの戦争に変えたと言わざるを得ない。ケネディがベトナム介入を拡大したのは、ロストウがいうように、「1961年にはあらゆる指標がベトナム情勢の悪化傾向を反映していた」という単純な事実に由来していた。それ以上に、この1961年という一年をつうじて、アメリカがベトナムで踏みこたえられるかどうか、そして、自由世界の防衛のためにアメリカはいかなる重荷をも担うという、就任演説でのケネディの誓約が本物かどうかが試されていたからでもあった。ケネディは約束を守る方を選んだ、そうせざるを得なかったのかもしれない。一人の人間である前に、彼はアメリカ合衆国の大統領であったのである。さらには、僅少差で選ばれた第一期目の大統領としての苦渋の選択でもあったと思う。ケネディは最後まで戦闘部隊の派遣だけは断固として認める事は無かった。しかしその一歩手前までアメリカを追い込んだことも事実かもしれない。さらにこの後二年問にわたって、介入路線を継続させ続けたのである。ケネディがホワイトハウスで過ごした最後の年、1963年には、米陸軍省はベトナムを戦域としてはっきりと認定し、兵士には戦闘中の歩兵部隊であることを示す記章をつけさせていた。最後の一歩を踏みだす役割だけが、ケネディの死によって副大統領から大統領に昇格したジョンソンの手に残されていたのかもしれない。しかし、もし神がケネディに圧倒的な支持と世論を味方につけた「第二期目の大統領」の栄誉を与えたならばどうなったのか?これは永遠の謎であり、まさに神のみが知る事なのかもしれない。