ケネディと東南アジア


今回より数回にわたり、大統領就任後のケネディと東南アジアとの関わりについて話を進めると共に、東南アジア問題を当面の最重要課題として開かれたウイーンにおけるケネディとフルシチョフの頂上会談(ウインー会議)に主題を絞っていく。当時の東南アジアと合衆国大統領の関わりといえばなんと言っても「ヴェトナム問題」に帰結することは誰しもが認めることであろう、そのヴェトナム戦争はいったい誰によって引き起こされたのか?それぞれの立場によってその回答は違ってくる。ある人は「そもそも、ヴェトナム戦争の泥沼化の端緒はケネディ政権時代に醸成されていた」といい、ある人は「ケネディはヴェトナムからの撤退を決意しており、歴史の振り子を戻したのはジョンソンである」と述べる。この場でその真実を決定的に解き明かす事は勿論困難であるが、この時代の歴史の一部を提供し、例によって読者諸兄にその結論への手引きとしたい。


ヴェトナムへの道

ケネディをはじめ新政権に参画した人々の多くは、外交の実務経験がほとんど無かった。国務省の官僚が彼らに対して外交の持つ機能や実際の手続きになどを付け焼き刃で説明しなければならなかったほどである。ソレンセンの述懐によると「ホワイトハウスの外側と内側とでは、世界が全く違ったものに見えた」という。それでもソ連やヨーロッパの問題はなんとかなりそうであった。50年代中ごろより駐ソ大使を務めていたレヴェリン・トンプソン、ヤルタ会談にも出席した超ベテラン外交官チャールズ・ボーレン、駐ソ・駐英大使を歴任していたアベレル・ハリマン、冷戦外交の舵取り役として活躍したデーン・アチソン元国務長官などと数々の助言者達が身近に存在した。しかし問題はアジアであった、1949年に中国共産党が政権を勝ち取って以来、アメリカ国内ではジョセフ・マッカーシー上院議員率いる赤狩りの旋風が吹き荒れ「誰が中国を失ったか?」という大合唱の元、国務省内のアジア専門家達は次々と職を追われ、それから10年後にはアジア問題についてまともに相談できる専門家は誰もいなくなってしまっていたのである。それでもインドや日本に関しては、まだましであった。チェスター・ボウルズ国務次官やエドウイン・ライシャワー駐日大使が詳しかったが、むしろそれは例外中の例外であった。こと東南アジアに関しては専門家は皆無に等しい状態であった。唯一の例外がエドワード・ランズデール。(ご記憶の方も多いと思いますがマングース作戦の実務責任者となった人物です)この人物はフィリピンの反政府ゲリラ組織「フクバラハップ」鎮圧によって伝説の人物となり、ヴェトナムにおいてゴ・ジン・ジェム大統領の擁立に動いた人物である、しかし彼は現役の軍人であった。
この専門家不足は数々の失敗を起こした。ケネディ自身、当初はラオスを「レイアス」と発言し訂正したり、世界地図上でラオスの国を見つけることの出来ない政府高官も少なくなかった。ラオス危機のさなかレムニツァー統合参謀本部議長は、大統領へのブリーフィングの最中、メコン川と揚子江を取り違えて説明していたし、ラオスの人口を聞かれて「125万から225万の間でしょう」と極めて曖昧な答えしかできなかったといわれる。すなはちケネディ政権にとって東南アジアとは「知られざる大地」であったのである。

最初の脅威

ところが、その東南アジアが政権発足時の「最大級の騒乱の舞台」となって用意されていた、それは人口わずか200万、ある旅行案内書の表現をかりれば「百万頭の象と白いパラソルの国」ラオスである。1953年にフランスから独立し、翌年のジュネーブ協定で休戦が成立したものの、以後血を血で洗う内戦が展開されていた。鼎立の構造は次のようになる。
左派パテトラオ(ラオス愛国戦線)の指導者は「赤の殿下」として知られたスファヌボン殿下、ソ連や中国の支援をうけていた。対抗してアメリカは反共主義者プーミ・ノサバン将軍をおしたててかろうじて政権を掌握していた。さらにスファヌボン殿下の異母兄にあたる中立派のスバンナ・プーマがからみ完全な内乱状態であった。当時世界中で繰り広げられていた「代理戦争」の構図であった。アメリカのノサバン政権へのてこ入れは尋常ではなく、1954年以降の援助額は3億5000万ドル、ケネディが大統領選挙中に指摘したように、人口一人当たりの援助額では前代未聞、最高の援助額であった。ケネディが政権発足の準備を進めていた1960年末、アイゼンハワー大統領によれば「ラオスは全面的な内戦の淵に近づいていたのである。12月31日アイゼンハワーは「手をこまねいたまま、戦いもせずにラオスを失うわけにはいかない」とヴェトナム沖やフィリピン沖にアメリカ第七艦隊の空母部隊を展開し、沖縄の空挺部隊も臨戦態勢にはいった。明けて1961年パテトラオ軍の大攻勢によって重要拠点ジャール平原がパテトラオの支配下にはいり、ノサバン軍は大混乱となり、中立派でスファヌボンと連携を保っていたプーマはカンボジアへ逃れていった。アイゼンハワーは1月2日「隣接した諸国が無く、それらへの影響がなかったら、ラオスなど見捨ててしまうべきだ」と苛立ちをあらわにした。しかしその翌日には、共産側がラオスで強力な立場を確立すれば、ついには南ヴェトナム、カンボジア、タイ、ビルマ(現ミャンマー)への波及は必至であり(ドミノ理論)東南アジアにおいての西側の将来は無くなるという「冷酷な事実」に立ち返らざるを得なかった。アイゼンハワーはここにいたって6機の戦闘爆撃機と400人の軍事顧問団を急派した、それに対抗するようにソ連はパテトラオ軍にたいして(ソ連に言わせれば)第二次世界大戦を除いてロシア革命以来最大級の軍需物資補給作戦を展開した。このソ連の作戦は中国の東南アジアに対する影響力増大を懸念した為とも、ラオスでアメリカと中国に泥仕合を演じさせる策謀であったとも言われている。また、世界の革命運動の盟主の座を争っている中国に向けて、ソ連が「ボルシェビキ革命への熱意を誇示しなければならない」という、共産圏内部の事情もあったようである。その意味ではソ連のパテトラオ支援は必ずしもアメリカに敵対する行動というわけではなかった。しかし、ワシントンからみれば、このソ連の作戦はラオスにとどまらず東南アジア全土の支配を目指す危険な行動に映り、アメリカへの挑戦状以外の何物でもなかった。

遺された重荷

ウイリアム・バンディ国防次官補(マクジョージ・バンディ大統領特別補佐官の実兄)によれば、ケネディの大統領就任直前、ラオスは「沸騰状態ないしその寸前」にあった。政権交代を明日に控えた1月19日、最後の引継ぎで最重要課題となったのもラオスであった。ゲイツ国防長官もハーター国務長官も、ケネディに同盟国と共同でラオスへの介入を提言した。アイゼンハワーは「個人的意見」と前置きして「連合政府樹立などよりもSEATO(東南アジア諸国連合)を通じて介入するほうがはるかにましだ」と語り、最後の絶望的な希望として(同盟国との共同歩調が無理な場合)アメリカ単独での軍事介入をケネディに勧告したのであった。しかし共産側の明白な侵略の証拠が無い限り軍事行動には無理があったし、介入は極めて危険な綱渡りであった。紛争拡大を懸念するケネディに、アイゼンハワーやハーターは、中ソのいずれもこの地域で大戦争など望んではいないと断言した。しかし、次期国防長官のマクナマラは、アイゼンハワー政権が、アメリカのとるべき行動に「非常に迷っている」という印象を受けたと語っている。ケネディは会談直後「どうしてあんなに平然と目前の災禍を眺めていられるのだろう」とアイゼンハワーの無責任ぶりに憤りをあらはにしていた。単独介入という提言はまさにアイゼンハワーその人が7年前には慎重に回避した最悪の選択であったはずであった。とにもかくにも、この会談はその後の運命的な東南アジア政策に重大な影響を与えた会談であったことは事実であった。ソレンセンはこの会談の少し前、アメリカの侵攻であれ敗北であれ「我々が仕事を始めて、責任を負わされる前に起こって欲しいものだ」と語り、共和党員ながら新政権の財務長官に迎えられたダグラス・ディロンは、アイゼンハワー政権は、「手に負えなくなる可能性のある問題をケネディに押し付けることができて、なにがしかの満足感を感じていた気配がある」と語っている。一方アイゼンハワーはケネディに、これまで自分がラオス介入を控えてきた理由について「これは次の大統領が決定するべき問題であり、長期的な性格のものであるからだ」と語っている。
ケネディが側近達の前で、ラオスを「アイゼンハワー政権が自分に残した最悪の混乱」と呼び、「ラオスには簡単で、確かな答えなど無い」と漏らしていた。しかし、彼らがどのように考えようとも、アイゼンハワーの言う「ラオスにおける衝突と混乱の遺産」は、ケネディの双肩に重くのしかかることになったのである。

予感される暗雲

アイゼンハワーの側近であるアンドリュー・グッドバスター将軍によれば、アメリカはパテトラオ軍の勢力など大して意味がなく、本当に重要なのは、実質的にパテトラオ軍を統制する北ヴェトナム軍の存在であると確信していた。そして彼らはラオス解放とともに念願の祖国統一にむけた戦いの準備を整えつつあることも政権内のだれしもが知っていた。しかしこの時点では、ヴェトナム問題はこの時点ではまだ大した問題ではなかった、何と言ってもヨーロッパには「ベルリン問題」が存在し、アフリカにおいては「コンゴ問題」が火を吹いていた、1960年の大統領選挙でケネディは「ベルリンから東南アジアに広がる鉄の帝国」に非難を浴びせ、世界中に伸びる「共産主義の触手」について強い警告を発し続けた、しかしラオスと異なり、ヴェトナムは多くの場合そこに含まれて居なかった。当選後行われていた数回のアイゼンハワーとの会談の席上の議題にも、1961年2月の上院外交委員会のラスク国務長官の世界情勢の検討にもヴェトナムは登場しなかった。アイゼンハワーはのちに、政権交代当時はラオス情勢のほうがはるかに深刻であり、独裁者ゴ・ジン・ジェムが抱える困難を除けば、南ヴェトナムには本当の関心は向けられていなかった、と述べている。CIAの分析官チェスター・クーパーによると「すっかり荒れ模様のラオスに直面した新政権には、ヴェトナム付近にあつまりつつある雲はそれほど不吉なものには見えなかった」といった所が一般的なワシントンの空気だったのである。
1950年代を通じて、南ヴェトナムは東南アジアでもっとも安定し、繁栄していた国のひとつであった。その復興振りは大戦後の日本や西ドイツと並ぶ「奇跡」といわれた。1957年訪米したジェム大統領は、救国の英雄、有能なアジアの指導者、20世紀を彩る偉大な人物ともてはやされた。しかし、南ヴェトナムの成功と見えたものは、実の所南ヴェトナムの全国家予算の三分の二、軍事費や輸入代金の80%をまかなうほどのアメリカの援助に支えられたものでしかなかったのである。ゴ・ジン・ジェム政権はアイゼンハワーがケネディに手渡した、危険な時限爆弾も同然であったのである。