フルシチョフの挑戦状


ケネディの大統領就任を二週間後に控えた1961年1月6日、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相は「全世界での民族解放戦争を全面的に支援する」ことを高らかに宣言したのである。フルシチョフはこう述べた、世界規模の戦争も地域戦争も、結局は核による人類破滅につながる。しかし民族解放戦争や人民戦争の名で呼ばれるものは別である。それは「圧政者に抵抗する植民地人民の蜂起としてはじまり、ゲリラ戦に発展する」戦争である。共産主義者たるものキューバであろうとヴェトナム、アルジェリアであろうと、これを全面的に支援しなければならない。それは60年9月、フルシチョフが国連総会の壇上で展開した主題であり、60年11月、81ヶ国の共産党・労働党の指導者を前に表明された確信でもあった。ケネディが当選した時フルシチョフは祝電を送り、米ソ関係が「再びフランクリン・ルーズベルトの時代にそうであったように発展する」よう希望した。アメリカ側でも、トンプソン駐ソ大使は、経済再建のためにフルシチョフは時間を稼ごうとしていると指摘したし、ケネディも米ソの「潜在的な共通利益の芽」を感じ取ってた、次期大統領としてケネディはフルシチョフに返書を送り「世界の諸問題にかんして両国政府が持つ重大な責任」を強調するとともに、今後はソ連領空でU2による偵察飛行を再開しないと約束した。1961年の年頭の時点では米ソ関係改善の可能性は間違いなく存在していたのである。
しかし、ケネディとフルシチョフが米ソの意思疎通に期待していたとしても、1月6日の演説がその可能性を台無しにしてしまった。この演説に示された「好戦的な確信と、ことに、反逆、転覆、ゲリラ戦による勝利の明らかな確信」に対する驚きがケネディの姿勢を硬化させたのである。

ケネディの反撃

当時、東南アジアでもアフリカや中南米でも、フルシチョフの攻勢ははかなりの勢いを持っていたから、ソ連による民族解放戦争支援はアメリカにとって厄介な問題であった。フルシチョフは最小の危険で共産主義を拡大しようと、第三世界で絶えることの無い内戦を「よだれ」をたらさんばかりに見ている、とワシントンはそう感じていた。この演説は新興諸国に対するソ連の帝国主義的膨張政策の意図を表明したものと捉えられ、ハーバード大学の教授であったヘンリー・キッシンジャーをして「この演説は途上国重視を掲げるアメリカに対する宣戦布告も同然である」と言わしめた。ケネディ自身も後に「あの演説の先には戦争しかないように思えた」と述べている。「好戦的な世界共産主義の危険ゆえに、かつてどの大統領も経験しなかったような危機的状況に直面する」とも予見していたケネディはフルシチョフ演説にたいする回答の場として、自身の大統領就任演説を選んだ。ケネディは就任演説で現在を「自由最大の危機」と捉え、「自由の存続と成功を確保する為には、いかなる代価も支払い、いかなる重荷をも担い、いかなる苦難にもたちむかい、いかなる友をも支援し、いかなる反対者にも対抗する」と決意を表明したのである。さらに、大統領としての初の一般教書においてモスクワや北京に向かって、とくに「攻撃や破壊活動が彼らの目的を追求する上で有利な道でないことをはっきりと解らせる」事が重要だと強調している。勿論ケネディは就任演説のなかに米ソ関係にとって「建設的な部分」をおりこむこともわすれなかった、その意味でケネディの就任演説は硬軟取り混ぜたソ連にたいする反撃の「のろし」であったのかもしれない。確かに側近のなかにすら、フルシチョフ演説に対する過剰反応ととらえる意見もあったほどであった。マックスウエル・テイラー将軍は「ワシントン全体がケネディの危機感を共有し、民族解放闘争の脅威が持つ意味を十分に理解するまでにはしばらく時間がかかった」と述べている。がしかし、フルシチョフ演説の本当の意図が世界に示されるまでにはさほどの時間がかからなかったのである。

第三世界は対決の舞台に

新政権にとってラオスと共に最初の試練になっていたのがアフリカの「コンゴ」であった。前年にベルギーから独立したまさに典型的な新興国であったが、国の財政的基盤でもある鉱物資源の産地である東南部のカタンガ地方が新たにコンゴからの独立を宣言し旧宗主国ベルギーの軍事介入を招いていた。力ずくでの国境変更を認めない立場のアメリカは国連を通じて中央政府とカタンガ州政府の和解を図っていたが、中央政府じたいがアメリカの支持するジョセフ・カサブブ大統領とソ連の支持するパトリス・ルムンバ首相の二派に分裂して内乱の危機に直面していた。フルシチョフ演説以降勢いを得たルムンバ首相やカタンガ州政府は軍事的大攻勢に転じた、アメリカはこの地方の問題を当初から国連を通じて解決を図っていたため、ソ連政府は国連に対して「一方的にアメリカ側に立った組織になり下がった」と非難した。ハマーショルド国連事務総長は「コンゴ対策の重大な、そしていくつかの点ではより危険な局面を迎えつつある」と語っている。(後にハマーショルドはコンゴ問題で先頭に立って解決をめざすが、ついに自分自身の命をも捧げてしまうことになる)
一方、ラオスでは1961年の二月を迎えたころ「再び沸騰状態に陥り」ノサバン軍を支えるためにはもはや軍事介入しかないように見えてきた。ケネディは英仏両国に対し共同歩調をとってくれることに期待したが、両国ともアメリカの求めに応じようとはしなかった。ここにきてラオスの領土保全ににかける意気込みについて。敵にも味方にもいっさい幻想を抱かせないためには、単独ででも軍事介入する姿勢が必要となってきたのである。

中立化の模索

袋小路に入った感のあるラオス問題にケネディはラオスを「どちらの側にも支配されない中立国」とするという方針を声明した。アメリカの働きかけで2月19日ラオスのサバン・パタナ国王は中立を宣言、カンビジア・マラヤ・ビルマの三国に中立国委員会形成を要請したが三国の協力を得ることはできなかった、しかしこの時期ケネディ自身は全力をあげて米軍の投入を回避しなくてはならないと決意していた。ラオス中立化はケネディの信念となったがソ連がたやすく同調するとは思えなかった、が行動しなければならなかった。さもなければアメリカの同盟国に失望の波紋が広がることは必至であった。ケネディは永世中立と引き換えに外国軍撤退を実現させた1955年のオーストリアを先例に、ラオスでも戦闘拡大を避けることが米ソ両国の利益にかなうことをソ連に納得させようとした。ワシントンはこの頃ラオスでのソ連の意図や目的を今ひとつ把握しきれていなかった。マクジョージ・バンディーやロストウは大統領に事態解決に決定的な意味を持つのは、フルシチョフとの直接対話以外にないと進言し、フルシチョフが何を求めているかを知るだけでなく、彼が中国を牽制しやすくなるように助け舟をだすべきであると問いかけた。当時は、ラオス紛争はソ連による大量の空輸と北ヴェトナムの軍事力に支えられた「共産主義の大義を推し進める強圧政策」とみなされていた。だからアメリカはソ連との交渉とによってのみ紛争処理の共通基盤を見出しうる、と真剣に考えていたし、ケネディ自身「ソ連がカギを握っていると考え、その努力を直接モスクワに集中した。彼はクレムリンに対して、交渉と中立ラオスに代わるべき道は戦争であり、これは単に共産側の利益に合致しないのみならず、ソ連自身の国益にとっても望ましいことではないと納得させたい」と考えていた。ラオスで対決が回避されれば、米ソが中国に対抗するため今後ほかの場所でも共同歩調をとることも可能だとの意見すらあった。

暗雲の飛び火

1961年初頭、ケネディがヴェトナムで直面しよとうしていたのは「1954年のジュネーブ協定以来、かつてない程度にまで増大していた」騒乱であった。3000人程度と見られていたゲリラ兵力は10000人程度にまで増大したと見られ、地方のかなりの部分を掌握していた。アメリカ軍事援助顧問団のマクガー団長は「実際には1959年の段階で反乱が警察の手には負えなくなっていた」と報告しているように、ケネディ自身、後にソ連首相フルシチョフに対し、南ヴェトナムの紛争を引き起こしたのは、1959年に北ヴェトナムが、公然たる浸透、破壊活動、侵略といった計算ずくの計画を発動したことであると非難している。ヴェトナム戦争の開始を1959年と見なす意見はこの事実によるものである。
ラオス問題を中立ラオスの樹立にむけて動かし始めた頃、南ヴェトナムにおいてもフルシチョフ演説に呼応するような動きが活発になっていった、前年1960年12月20日に密かに結成された民族解放戦線すなはちヴェトコンであるが1961年2月15日には、南ヴェトナム人民解放軍が結成され正規軍としての武装闘争が開始されたのである。ハノイ放送はゴ・ジン・ジェム政権粉砕を叫び、1961年中の南ヴェトナム解放を豪語した。ヴェトコンは決して北ヴェトナム労働党の支配下にあったわけではないし、共産主義革命というより民族の自立と農民のための革命を目指していたといわれる。だからこそ、ヴェトコン(ヴェトナム・コミュニスト)という蔑称にもかかわらず結果的にはあらゆる反米・反独裁の運動を纏め得たと言われる。その意味ではキューバ革命と本質的には同一の次元にあったといえよう。しかしワシントンの常識は別であった。ヴェトコンとは、南に一切の根を持たないハノイの手先にしか見られていなかったのである。この動きを「ハノイのしかけたゲリラ戦」と見なし、「北が南を征服しようとしていた」と見ていたのである。この新たな局面を迎えた戦いのカギは「北ヴェトナム共産党の支部」であるヴェトコンの浸透、破壊活動、サボタージュ、暗殺などをいかに阻止するかであると認識されていたしアメリカ政府の公式な見解であった。ところが、1961年の春の時点で「南ヴェトナムでの共産主義者の破壊活動の努力は、今年きわめて重大な段階に到達する可能性がある」と予測する人々も存在した。苦しく長い戦いがアメリカを待ち構えていたのである。

北方の脅威

そもそも1961年の時期に、フルシチョフがあれほどの強気の発言をした背景はいったいどこにあったのであろうか。それは第一にソ連国内の強硬派の突き上げに対処する為であり、第二に第三世界の中国の影響力拡大を牽制するためであったと言われている。当時表面化していた「中ソ対立」の所産である。しかし現実にはワシントンにおいて誰一人として、ソ連と中国の相違を認識しているものはいなかった。1963年にいたってもまだケネディは中ソ間の不一致は目的ではなく手段についてにすぎない、と思っていたという。北京がモスクワの代理人であろうとなかろうと、共産陣営が東南アジアを冷戦の主戦場とみなしていたことに変わりは無かった、ヴェトコンやハノイの背後にフルシチョフが居ようと毛沢東の影が見えようが、しょせん表面的な、戦術上の違いでしかなかったのである。もともとソ連は1957年の時点で南北ヴェトナムの国連加盟を提唱している、自国から遠く離れた、この様な辺境でのアメリカとの対決を避けたい一心であり、また北ヴェトナムが国内建設に専念するように望んでいた。ソ連には、北ヴェトナムへの影響力自体がほとんど無かったのである。1961年の春にフルシチョフは「ラオスもヴェトナムも東南アジア全部も、アメリカと中国で争えばいい、私は手を引く、我々はなにもいらない」と述べたといわれている。当時政権内部でも、例えばチェスター・ボウルズ国務次官のように、中国の経済的政治的な活力に注目し、今後数年間にわたって東南アジアでの重大な挑戦は「モスクワからでなく北京から」やってくるものと見ていた。東南アジア全土が中国の巨大な影におびえきっているように見えた、アメリカ側の予測では1962年までには中国は核を保有する見込みであり、そうなれば、アジア全土でその威信と影響力はいっそう増すはずで、これまで以上にアメリカの対応は急がれていたのである。