1978年8月14日、マイアミの新聞「スポットライト」に、一つの寄稿文が掲載された。寄稿者はヴィクター・マーチェッティ、約20年間アメリカの諜報活動に従事し、その内の14年間はCIAにその席をおいていた生っ粋のエイジェントである。さらに最後の3年間はリチャード・ヘルムズ長官の補佐官までつとめた人物である。この記事に関して一つの訴訟が起こされた、原告はエベレット・ハワード・ハント、被告は「スポットライト」紙の発行会社のリバテイー・ロビー社である。訴訟罪名は”名誉毀損”である、この裁判こそ1967年ニューオリンズの地方検事ジム・ギャリソンが起こした「クレイ・ショー裁判」以来、一種の聖域となった観のあるケネディ暗殺事件の20年ぶりの訴訟事件であった。この裁判は、「クレイ・ショー裁判」以上のインパクトを持った裁判であったはずであった。しかし、あまり話題にもならず反響も起きなかった。アメリカは暗殺事件にひきずられる自分達の心のひだを取り除く、最大の機会を逃してしまったように思われる。

訴訟までの経緯

1967年有名なクレイ・ショー裁判が結審し、検事ジム・ギャリソンに対する批判、非難の後、ケネディ暗殺事件に関する訴訟は一切行われていなかった。ところが、1972年のいわゆる、ウオーター・ゲート事件が発覚して世間が騒然としていた時期、ニクソン大統領に対する関心と共に事件の実行犯(鉛管工と呼ばれていた)のなかに、ハワード・ハント、バーナード・バーカーの名前が流布された、この名前に驚愕したグループがいた、いわゆる「ケネディ事件研究家」達であった。(理由は次の項にゆずるが)研究家の一人J・ウエーバーマンとマイケル・キャンフィールドは暗殺直後に撮影された写真を公表した。(この写真の存在は以前から周知の事であったが)その写真は、事件直後デイリー広場の裏手鉄道操車場に止まっていた貨車のなかから発見され、不審人物として連行される三人の浮浪者の写真である。(写真)この写真に写っている人物こそハワード・ハントやフランク・スタージェスであると、発表したのであった。ハントは直ちに訴訟をおこした、「サード・プレス裁判」と呼ば れているものである。この裁判は1978年に原告ハントの一方的勝訴におわり、この写真さわぎは終わったかに見えた。ところがサード・プレス裁判の決着とほぼ時を同じくした1978年8月14日マイアミの地方紙「スポットライト」に”CIA、ハントのケネディ暗殺関与を確認へ”と題する記事が掲載されたのである。この記事に対してもハントは訴訟をおこした、そして1981年12月マイアミ地方裁判所は、またしてもハント勝訴の判決をだした。被告であるリバティー・ロビー社は直ちに高等裁判所に控訴している。この控訴に対して高裁は”裁判指揮に関しての重大な誤謬の存在”(掃除人解析参照)を理由にマイアミ地方裁判所に事件を差し戻したのである。
1985年1月に、この名誉毀損事件の差し戻し審が開かれた。この差し戻し審こそ「マーチェッティ裁判」として実質的なケネディ暗殺事件の裁判であった。

争点とその意味

そもそも、この裁判の争点と暗殺事件の係わりは、いかなるものであろうか。後述するようにヴィクター・マーチェッティの記事の内容は、明確にハントの暗殺事件への関与を指摘して陰謀団の一員であったとCIAが近い将来、暴露するであろう、というものである。(実際には、そうはならなかったが。)これを限定暴露と言う。この限定暴露の手段として、事件当日、ハントがダラスに居たという事実の暴露が当てられた、と言うのである。それでは、(本ページの熱心な読者の方々には復習となってしまうが)エベレット・ハワード・ハントが1963年11月22日にダラスに居た事がいったいどのような意味をもつのであろうか。

ハントは、CIAの中堅として1959年頃には職務を遂行していた。当時の彼の仕事は、グアテマラのCIA基地における亡命キューバ人の軍事教育の責任者であった。これは、CIAが近い将来実施する予定のキューバ進攻作戦の実務上の責任者を意味する。(ビッグス湾事件)そして、進攻作戦の失敗の後、彼は公然とケネディ大統領を非難する。(”CIA解析”参照)そのかたわら、アメリカ南部に散在する亡命キューバ人グループを指導してキューバ革命委員会を組織する。この組織は南部の亡命キューバ人グループの統合連絡事務所の意味合いが濃い組織であるが、ここの実質的なCIA側の責任者であった。この事務所の所在地が例のニューオリンズ・キャンプ街544番地である。すなわち、オズワルドの連絡先であり、元FBIガイ・バニスターの事務所であり、さらにはデヴィット・フィリーやクレイ・ショーの頻繁に出入りする所である。さらに、1963年10月オズワルドがメキシコのキューバ大使館に姿を現した時期、ハントはCIAメキシコ支局長を勤めていた。そして、オズワルドとの手紙のやりとりもされていたのであ る。このようなCIAの人物が1963年11月22日。ダラスの暗殺現場に居た・・・これが事実であったならば・・・・この事実を”偶然”と自信を持って言える人物がいたらお目にかかりたい。しかし、記事は言う、”この新事実の露見自体がすでに謀略の一貫である”と、確かにセンセーショナルな新事実の発見によって世論はその方向に目を奪われ、本質の存在を忘れてしまう傾向がある事は事実であるにしても、20年の歳月をかけて数々の研究者たちが僅かずつ進んできた道が、決して道を間違えてはいなかった事の証明になることは間違い無い、この一歩によって再び10年・20年の地道な歩みがはじまるのである。
補足になるが、彼、ハントと同様な任務に就いていた人物がバーナード・バーカーである。彼は、マーチェッティの記事にはでてこないが、事件当日、疑惑の集中した”グラシーノール”でダラス警察の警察官スミスとワイズマンに目撃され「シークレットサービス」の身分証明をちらつかせている。
そして10年後この二人はウオーターゲート事件の実行犯として逮捕される。この事は彼らが権力内でのダーティな部分の実行者部隊として動いているのではないかと言う疑問が出てきたのである。しかも、この二人の名前はケネディ暗殺事件当時もとりざたされていた名前であった。しかも、ハントはこの事件の広がりの過程で驚くべき事に、CIAやニクソンをゆすっているのである。通常”ゆすりたかり”のたぐいは、ゆする側がゆすられる側の弱点や秘密を握っているからこそ成立する行為である。とするならば、彼ハントはCIAやニクソンのどのような弱点、秘密を握っていたのであろうか。(この件は、将来のコンテンツ”ウオーターゲート事件”にゆずる事とする。)

発端

この訴訟事件の発端となったヴィクター・マーチェッティの記事は、若干、長文になるが紹介する。尚、この記事の書かれた1978年3月から1978年8月という時期は、ちょうど1977年に発足した「アメリカ下院暗殺問題調査特別委員会」(”暗殺問題委員会”参照)の活動がピークを迎えていた時期にあたることを記憶しておいていただきたい。

"数ヶ月前の3月、ポトマック川を見下ろすアメリカのスーパースパイの豪奢な本拠地、バージニア州ラングレーのCIA本部で、ある会議が開かれた。その会議には何人かの秘密活動担当の幹部と数人のCIA元最高幹部が出席した。
議題は、大統領暗殺犯オズワルドと米間のスパイ戦争を結び付ける最近の暴露への対応について、であった。決定がくだされ対応処置の方針が決定された。それは三月後半から下院暗殺特別委員界が公聴会を開く際に巧妙な「限定暴露」の作戦を展開すると言うもので、この作戦は一般大衆を引き付けると同時に混乱させるように計算されていた。
この限定暴露というのは、秘密作戦をおこなうプロが得意とし、しばしば使う策略のスパイ業界の用語である。秘密をかくしておくベールがズタズタに切り裂かれてしまい。人々の目を欺き隠蔽するための作り話に、もはや頼る事が出来なくなった場合、彼らほ真実の一部を自ら進んで認める一方で、事件のカギとなり、かつ彼らに重大な打撃をもたらすような事実をひきつずきうまく隠しておくと言う手段に出る。すると人々は大抵の場合、この新情報に関心をそそられるあまり、事件をさらに追及しようとはしなくなる。
誰が、一体何の為にJFK暗殺を計画し背後であやつっていたのかが明らかになる事はおそらく無いであろう。暗殺から15年が過ぎた今でさえ、暗殺の陰謀につながる非常に多くの強力な特別グループが存在するため、真実がなかなか明るみに出ないのである。
しかしCIAと下院暗殺調査特別委員会筋によると、われわれは今後二ヶ月の間にこの犯罪についてさらに多くを知る事になるという。明らかになる新事実はセンセーショナルなものであろう。しかしそれは表面上だけである。陰謀とその後の揉み消しに関与した数人の小悪人の名前が初めてあきらかにされ、彼らはテレビの生中継を見ながら徐々に不安な気分にさせられていくだろう。名指しされる他の関係者の多くは、すでに死亡している。
しかし、またもや、良きアメリカ市民は、政府と体制派マスコミ内にいる政府の協力者たちに欺かれるであろう。つまりカーター政権の了解のもとにCIAは、FBIの協力を得てもっと洗練された新たな隠蔽策を考え出し、国民がそれを目撃するように仕組んでいるのだ。
限定暴露の古典的な例としては、CIAが二年前のチャーチ委員会(CIAの海外における暗殺等の犯罪を調査した。)の調査をうまく操作しごまかしたケースがある。チャーチ委員会は、外国指導者の暗殺、麻薬の不正取り引きあるいはマスコミへの浸透工作について、CIAが委員会にあきらかになっても構わないと判断したこと以外は究明できなかった。CIAが今回、ケネディ暗殺事件に関して委員会を通じてやろうとしているのが、まさにこのことなのである。
新たな調査で暴かれる人々の中心人物は、ウオーターゲート事件で一躍有名になったハワード・ハントであろう。ハントの命運はもはや尽きてしまい、CIAはCIAの秘密任務を守る為にハントを生け贄にすることを決めたのだ。CIAはハントがニクソン疑惑にCIAを公然と巻き込み、しかも逮捕された後もCIAをゆすったとしてハントに腹を立てている。
加えて、ハントは、スパイ業界で言うところの攻撃目標にしやすい人物、つまり、弱みのある人物である。その信望や誠実さは、すでに失われている。ハントの妻ドロシーは、シカゴで起きた謎の飛行機事故で死んだが、消息筋によると、彼女は当時、ハントと離婚しようとしていただけでなく、夫に反旗を翻そうとさえしていたという噂がある。このため、彼女の死について依然多くの人が心穏やかでないものを感じている。
さらに、ハントがJFKを嫌悪し、ビックス湾作戦失敗の責任は彼にあると非難していたことはよく知られている。そしてこの数ヶ月間にハントがケネディ暗殺事件の当日どこにいたのかというアリバイは成立しなくなっている。
暗殺特別委員会の公聴会でCIAは、ハントがケネディ暗殺の陰謀に加担していたことを認めるであろう。CIAはさらに、ケネディを狙撃した人物が三人いたことさえ認めるかもしれない。FBIは、公式にはウヲーレン委員会の「単独犯による犯行」という結論を支持してはいるものの、内部的には三人の狙撃犯がいたことを当初から知っていた。この陰謀には、ケネディを実際に狙撃した人間よりもはるかに多くの人間が関わっていたことをCIAとFBIはともに認めるかもしれない。
「アメリカのクーデター」の著者ウエーバーマンとキャンフィールドはケネディ殺害直後デイリープラザで逮捕された一見浮浪者風の三人の男の写真を公表した。しかし奇妙な事に、この三人は、ダラス警察がその逮捕について何の記録も残さないまま釈放された。二人の著者は、この三人の浮浪者のうち一人をハントと断定した。残りの二人のうちの一人はフランク・スタージェスで、長い間ハントの下で工作員として働いていた人物であると指摘した。
ハントはただちに何百万ドルもの損害賠償請求訴訟を起こし、暗殺当日はCIAに出勤しておりワシントンにいたことを証明できると主張した。しかしながら、CIAに出勤していたと言う主張は事実でないことが判明した。すると、ハントは、その日は休暇をとりチャイナタウンの食料品店で買い物をするなど家の用事をしていたと述べた。ウエーバーマンとキャンフィールドはこの新たなアリバイを調べ、ハントが買い物をしていたと主張した食料品店は全く存在していなかったことを発見した。
この時点でハントは一ドルを払えば訴訟を撤回すると申し出たが、ウエーバーマンらは自分の主張の正しさを証明することを決意してハントのアリバイ崩しを続け、結局これを粉砕した。
今回CIAは、ハントを見限って、彼をJFK暗殺に結び付けることに踏み切った。暗殺特別委員会は数週間前に、CIAから、たまたま古い文書保管庫で見つけたと言うCIAの部内メモを期せずして受け取った。そのメモは1966年に書かれたもので、その内容は一言で言えば、「いつの日か我々は、ハントが1963年11月22日にダラスにいたことを釈明しなければならないであろう。」というものであった、ハントはこのメモなどについて、公聴会でテレビカメラを前に、必死に説明せざるを得ないことになるであろう。
ハントの極めつきの狂信的反共主義は、彼にとって不利な材料になるだろう。又、反カストロ派キューバ人との長期にわたる密接な関係も、秘密工作を好み汚い手口を使った事やニクソンの鉛管工の一人だった頃のさまざまな悪事と同様に、ハントにとってマイナス要因になろう。ハワード・ハントは暗殺の陰謀に連座させられるが、あえて真相を全面的に暴露はしないだろう、またCIAはハントがそうしないように取り計らうであろう。・・・・・・・中略・・・・・・・・・・暗殺の陰謀の隠蔽に関しては、すでに死亡したか、あるいはその名誉を自ら汚した歴代の大統領に責任が負わされるであろう。こうして、カーターは真実の追及者としT浮かび上がりCIAやFBIは、組織としての関与をきれいに隠蔽してしまうであろう。・・・後略”

裁判

マーチェッティーの記事の内容は、来るべき暗殺問題委員会で起こるであろう事を予言したことになるのであるが、結局のところ何一つとして現実とはならなかったし、何らかの類似性を感じさせる出来事も起こらなかった。差し戻し審判の焦点は「ハントが1963年11月22日にダラスにいたかどうか?」の一点にしぼられた、差し戻し審の被告弁護人になったマーク・レーンは、記事中にあるCIAメモに着目した、そしてそのメモの存在を証明してみせたのである。しかも、そのメモには、1966年当時のCIA長官リチャード・ヘルムズ・同じく防諜部長ジェームズ・アングルトンの承認署名が記載されていたことも発見したのである。結局裁判では、完全にハントの1963年11月22日のアリバイは崩れ去りハントの敗訴に終わった。裁判の訴因が”名誉毀損”であったために、記事の内容とりもなおさず、ハントがダラスにいたと言う事実が証明されれば裁判は終わるのである。極端な言い方をすれば、ハントが暗殺当日ダラスにいて、何をしようと”それが暗殺と言うことであっても、”この名誉毀損裁判の訴因ではない為に争われる事はなかった。
しかし、ハントが事件当日ダラスにいた事実は、CIAの事件への関与の可能性を際立たせる結果となり、国民の事件への疑惑は一層深まっていった。