お詫びとお礼

オフ会報告作成にあたり、以前にも増してあれも書こうこれも載せようと手を広げ、映像もふんだんに取り込みました。その為相当重たいページになってしまいました。どうぞお許し下さい。また、参加者の皆様からの素材提供を頂き完成できました、心より感謝いたします。




1999年11月21日記念すべきケネディサイト第一回のオフ会のスタートの日を迎えました。集合時間は午後5時チケットカウンターのGセクション三々五々集まり出した方々、勿論、皆さん初対面、顔と名前が一致しない。”はじめまして、はじめまして”の声が交錯する。”前田さんですか、中出です””あっ、ロックフォードさん?”名前よりニックネームが先に出てしまう。”猫太郎さんですよねー?””はい、小沢です。”なんだか、変な会話?
なんとか定刻には日本からの12名全員集合、ジェニーさんは昨日は徹夜だそうで半分寝ているみたい、やはり一週間会社を休むとなるとそれなりに大変。その上、会社から国際通話のできる携帯電話を渡されてきたみたい。文明の利器もこうなると可哀相、ナッキーさんはホヤホヤの税理士さん、今はいいけど帰ってから月末締め切りの仕事を二日で処理しなければならないとか、お仕事で日本全国を飛び回っているトムさんも想像と違ってお若い方、一番旅慣れているような軽装でした、大江さんや樋口さん、今回の旅の若き花々も想像通り美しい方で小生、年甲斐もなく”ウキウキ”・・皆ダラスに行ける喜びで目が輝いていました。

ダラスツアーのバス

窓が少くて見にくい限り。





参加者全員そろって大?パーティー(部屋の中)

前列左から、池田さん・大上さん・中出さん・中北さん・小沢さん・宮間さん ・後列左から・内山さん・堂本さん・私・樋口さん・濱田さんご夫妻・山根さん・前田さん

禁煙と退屈に悩まされること11時間、皆さん疲労困ぱいの態でダラスフォトワース空港到着、いよいよ旅の始まりです。ホテルに向かう途中、ダラスにおけるモーターケードの目的地”ダラストレードマートセンター”に寄り道してホテルに到着。ダラス現地参加の濱田さんご夫妻とも無事合流。休むまもなく夕食会兼今回の旅の基調講演となりました。実は私この講演の為に「あれも話そう、これも話そう。」と総ページ数36ページの資料を準備していたのです。が、喋り初めて30分、まだ数ページ分しか進んでいない、こりゃダメだ!全部この調子で喋っていたら5時間や6時間あってもとても足りない!ケネディの登場した時代の背景を話していたのですがやはり内容が退屈な為か、それとも飛行機の疲れか船を漕ぎ出している方もいらっしゃる。急遽、飛ばしに飛ばして事件の疑問点の解説まで三段跳び!やはり事件の核心部分となると皆さんも急に熱心になりました。「魔法の銃弾」の検証を中心に話す事、約2時間。無事と言うか、やっと終わった感じでした。お聞きになっていらっしゃた方々には大変申し訳ありませんでした。この失敗は、明日必ず取り返します。講演中、皆さんは夕食を取っていらっしゃたのですが自分は食事抜き、最後に駆けつけ3杯とサーモンを掻っ込みました。部屋に戻ってからしばらくすると皆さん「煎餅」や「柿の種」持参で自分の部屋に集まり始めました。とうとう全員が自分の部屋に集合!ちょっとしたパーティーになりました。やはり日本人は胡座をかいて「さしつさされつ」の方が気楽なようでケネディ論議に花が咲いた一夜でした。それにウイスキーボトル空瓶2本がころがって居ましたヨ。時間の経過も早く、すでに12時をまわり22日を迎えた頃、お開きとなりました。
















気分はザプルータ?ちゃんと秘書役も居る。

一夜明けて11月22日を迎えました。36年後の同じ日を、まさかここダラスで迎えようとは夢にも思っていませんでしたが現実なのです。8時出発なのに朝4時から、お目目パッチリ。睡眠時間わずか3時間!ベットの上で感慨にふけっていました。午前8時いよいよ行動開始!ディリー広場に、皆の口から感動のため息が聞こえます。まず、ヒストリカルランドマークの記念プレートに丸一年ぶりの再会です、前回はなにも無かったけれど、今日は命日と言う事も有って花輪や星条旗が飾られている。ケネディに「又、来ましたヨ。」と心の中で挨拶している僕でした。これから二時間、変な外人14名がゾロゾロと広場の中を動き回ったのです。でも、今日は特別の日、だれにも奇異には見られなかったでしょう。目撃者達の位置に立ったり弾道をその目で確かめるべく地べたに寝そべったり、それはそれは大変でした。自分の解説にも自然に力が入っている事に気がつきました。グラッシーノールの裏手から狙撃現場を見ていた時「どうして。柵がスカスカなの?」の声に「皆が記念に持って行っちゃうんですよ!」ふと見ると、誰かさんが柵に記念の署名(一般的に言う落書き)もうこれだから困る、やんわりと「やめましょうよ?」でもその気持ちは充分わかります。質問にも熱が入って来ました「ウイルスの撮影位置はこの辺ですかね?」「アルトジェンズの立っていた位置は?」もう、嬉しくなっちゃう質問がポンポン飛び出して来ます。エメット・ハドソンの位置を指し示すと「これでは、目と鼻の先ジャン、銃声の場所を間違える訳ないよねーー!」そうそう、そうなのです!!!!!現場に立ってはじめて実感する現実なのです。そろそろ10時、団体旅行の悲しさ6階博物館に入場の時間です、皆さんもっと居たい気分判ります、申し訳なし。心で謝って6階博物館へ、館内では解説が出来ないので館内での見所をお話して入場しました。「12時20分には必ず集合して下さい。」自分は前回何度も館内はくまなく見て居るのでざっと見渡した後、窓からディリー広場を眺めて居ると後ろでザワザワ。何事かと寄ってみると一人の紳士がパネルの前でインタビューを受けて居る、テレビクルーも3社くらい撮影している。パネルの写真とその紳士を見比べるとなんとご当人!1963年11月22日午後1時33分、公式に大統領死亡を発表した、当時のホワイトハウス報道次官マルコム・キルダフ氏でした。やはり事件当日と言うこともあって大物も来て居ました。後半の20分くらいはやはりケネディグッズの売店へ.。皆さんこらしょと買い込んで居ます、今回の目玉は何と言ってもカレンダーでしょう。一番人気があるようです。(6階博物館の通販でも買えますよ)ところが、我々があんまり大量に買い込んだ為?売店のコンピュータがダウンしちゃった。係りの人が諦め顔でコンピュータとにらめっこしている。「池田さーーん。出番ですよーー!」大上さんは「最後にもう一度ここに来るんですよねエ?私、何にも買ってない。」と悲しい顔「ハイハイ、時間は取ってあります。」でも大丈夫かな?







時刻は12時20分・・・売店のコンピュータはいまだ回復せず。レジの前は長蛇の列「これは困った!」現地添乗の由紀子さんに「メンバーの方の買い物品はそれぞれ袋に入れて預けるようにして下さい。後で取りに来た時精算するようにしましょう。」大混乱の中、運命の時間の現場に急ぎました。すると、居るは居るは!思いは皆同じ・・
ざっと見積もって100人位は居るんじゃないかな?集会の主催者の旗が見えました。ヤッパリJFKランチャー社実に行動的な会社です。昨日のカンファレンスの参加者が流れてきたのだそうです。事件のその時間が近ずきました司会者が「皆さん、エルムの方に向かって下さい。」僕はクルスを切り黙祷しました。「どうか、安らかに眠って下さい。」自然と涙が滲んで来てしまいました。神聖な祈りの時間なのに「カシャ、カシャ。パチ、パチ。」何の音だろうと目を開けると僕の真下でカメラマンが寝そべって写真を写してる、しかも僕が被写体になってるみたい。「なんじゃこいつ?」おもむろに起き上がったカメラマン、手帳片手に「どこから来たのか?名前は?何の目的?」矢継ぎ早に質問の嵐!早口とテキサス訛りでさっぱりわからない、向こうも日本訛りの自分の英語がわからない。幸い由紀子さんが隣に居たので彼女が通訳してくれました。握手をして別れた後「モーニングニュース」の記者だとの事。ひょっとして明日の朝刊に載っちゃうのかな?新聞買わなくちゃ!!

ウエストエンドで昼食を取った後、今度はバスで各種の足跡を巡ります。ラブフィールド空港から現場までのモーターケードコースを走り、現場からパークランド病院に急行。まったく当時と同じコースを疑似体験しました。パークランド病院の救急センターの入口で解説や写真を撮っていると、周りの患者さん達が、もの珍しそうに我々のほうを指さしたり話題にしているのが判りました。そりゃそうでしょう、変な外人達(ここでは我々が外人)が病院の前でウロウロしていれば何事かと思うのが当然でしょう。さすがに事件の記念日だとしても此処まで来る人は居ないでしょうから。再び現場に戻って今度はオズワルドが教科書ビルを出てから逮捕されるまでの足取りを疑似体験。教科書ビルからエルム&マフィーのバス停まで徒歩で歩きました。「オズワルドはこの間を約6分で歩いた事になっています。」バスはそのバス停で待機している事になっていますので大して通り名は気にしないで歩いて行きましたがいつまでたってもバスが居ない!すでに歩き出してから10分以上経っている。ふと通りの名前を見ると「エイカー通り」こりゃ完全に通り過ぎた。「すみません。戻ります。」今度は通り名のプレートを見逃さずに歩いて目的のバス停に到着。しかしバスは居ない。こりゃ困った!迷子になっちゃったかな?一緒に歩いていた日旅添乗の西脇氏も真っ青になって「探してきます!」と走り出していきました。待つ事10分、西脇氏が息せき切って帰ってきました「見つけました!」本当によく見つけたものです。やっとバスに乗ってオーククリフ地区へ出発したのでした。










これから後は自分も初体験、前回の訪問の時には単独で行くには危険すぎるとのアドバイスを受けて断念した場所。地元の人に言わせるとダラスで最も治安の悪い地域なのだそうです。バスはベックリー通りに入りました。その道路脇に”北ベックリー通り1026番地”の建物がある筈と思っているとバスは停車。確かに玄関には1026番地の文字が。ここが事件当時オズワルドが下宿していた場所なのです、建物は当時のものそのままだとの事でした。本当はここからオズワルド同様、テキサス劇場まで歩きたかったのですがやはりそれだけは辞めてくれと言われ断念、バスで彼の歩いた道を通ってチピット殺害現場に移動しました。
東10番街とパットン通りの交差点、この場所がオズワルドが警官チピットを殺害した場所になります。まさに何も無いうら寂しいたたずまいを見せる交差点は、たまに車が行き交うだけ、人通りも全く無い辺鄙な場所でした、日本にもあるちょっと大きな町の郊外を想像して頂ければ当たっているでしょう。オーククリフ地区そのものが全体的に生活レベルの低い地域のように感じたのは自分だけでしょうか?





中央やや右の赤点の位置が現場

「売物・貸物」テキサス劇場の前に大きな看板。やはりアメリカでも映画産業は斜陽なのかしらん?かつてオズワルドが逮捕されたテキサス劇場も閉鎖されていました。しかし建物自体は当時のままに残って居ました。独特な側面の看板も当時のまま、ニュース映画や記録写真の通りでした。しかし、数軒先にあったブルーワーの靴屋はだいぶ前につぶれたとの事、影も形もなくスーパーマーケットに変身していました。でもラッキーだったのでは?テキサス劇場も、もし売却されれば取り壊される運命にあるのではないでしょうか?「オズワルドが逮捕された建物」では政府の保護も無いでしょうし、観光客を集めるにはチョット苦しいネームバリューですものね。だれか事件研究家が買って保護するくらいしかないのではないでしょうか。ひょっとして最初で最後の見納めになるのかしらん?と思うと何か一抹の寂しさを感じました。


11月23日、我々はケネディの眠る首都ワシントンへ。ホテルのレストランも開いて居ない早朝の出発。ロビーでオニギリのお弁当を皆で食べる!(これが又うまかった!)少しでも多くの時間をワシントンで作る為には仕方なしと、もくもくと食べて居る皆でした。心はすでにアーリントンに!機上の人となった皆の思いは一緒であった筈です。飛行機はゲートを離れてタクシングそろそろエンジン全開でテイクオフ!!!テイクオフ!!!オンヤー??のそのそとタクシングしながら元来た滑走路を戻ってく???ついにはゲートに到着。ワシントンってこんなに近かった???「当機はエンジン不調の為ヒューミニッツ遅れます」とのアナウンス。数回ヒューミニッツがあってから、今度は「アウトオブサービス」だって。これって飛ばないって事でしょ?ゾロゾロと元居たロビーに逆戻り。僕にとっては初めての経験でした。そうそう。例の「ダラスモーニングニュース」の新聞を買ってみましたが自分の記事は”没”でした、チョピリ残念。









行動予定ではワシントン到着が午前11時30分!ところがエンジントラブル事件で遅れる事3時間以上。時間は3時に近ずいています。「何が、フューミニッツだ!この野郎!」と悪態ついても何にもならない。不幸中の幸いと言えば到着空港がレーガン・ナショナルだった事、もしダレスだったらもうダメ!アーリントンに着く頃は暗くなっちゃってる。取り敢えず前後策を考えねばと、何でもいいからまずはアーリントンに向かってもらいました。バスの車中で「ノンビリ昼飯を食べてる時間はないので昼食は弁当箱に入れてもらう事にしました、さらにコースを変更して公文書館に閉館までには入場してしまうこと、ホワイトハウスやウオーターゲートビルなどはライトアップで我慢してもらう事を急遽決定、現地添乗さんはアーリントン見学中に昼食のレストランに行ってもらう事にしました。」ナショナルからアーリントンまでは目と鼻の先、バスはアーリントンに到着。晩秋の景色の濃い墓地内をケネディの墓所に向かいました。ここは細かい説明などいらない、ざっと全体を説明して自由行動とする事に。皆さんそれぞれの感慨にふけって頂くことにしました。公文書館の最終入場時間が4時30分、公文書館まで20分くらい?アチャーここでは1時間位しか時間がとれない、自分が来た時には、ここで2時間以上も居てまだ未練があったのに・・・「僕の責任じゃないけど皆さんごめんなさい。自由行動の時に再び来て下さいネ」











さすがに夜景の写真は
映りませんでした。

公文書館を出るとすでに暗闇、FBIの建物を外部から眺めながらバスへ。でもFBIは結構な人気!明日は館内ツアーに来るという方が大勢いらっしゃいました。フォード劇場の前にバスは止まっている、バスに乗ってホワイトハウスからウオーターゲートビル、最後にリンカーン記念堂に、日はまったく落ちて真っ暗。記念堂は24時間開いてるので見学はできるがバスの後ろを見るとほとんどの人が白河夜船。どうしようか迷っていると「夜ですと記念堂の裏手から”永遠の炎”が見えるんですよ!」・・・・・・これは行かなくては!全員に起床ラッパを吹き鳴らしリンカーン記念堂に。リンカーンさんには悪いけど早く裏手に回りたい。記念堂を一巡して裏手に回る。当然ながらアーリントン橋の延長線上にケネディの墓が有るのは判っているが本当に見えるのかしらん「今日はちょっとフォギーで見にくいですが、」と説明している。中には「見えた!見えた!」と感激している人がいる!「チキショウ、俺には見えない。」PCの使い過ぎで最近目が悪くなった事をこの時ほど悔やんだ事はありません。「ほら、あそこの建物の下・・・」この野郎「ケネディの墓の位置くらい言われなくても判ってるワイ」真剣にむかつく僕でした!
その時、僕の目には”チョロ、チョロ”と微かな光が映ったように感じました。一度感じてしまうともうその光は松明のように大きく見えてきたのでした。「見えた!」そう自分には大きな大きな松明に見えてきたのです「トーチは我々の世代に引き継がれた!」との就任演説の一節が唐突に頭に浮かびました。なんと感動的な一瞬でしょう、設定がドラマチック過ぎる!南軍のリー将軍の家の下で灯る松明はリンカーン記念堂を照らし、そして共にモールを照らす。そして南軍と北軍の英雄の間を、死してケネディが取り持っているのです!これが、感動でなくして何でしょう!感激性の自分は思わず涙ぐんでしまったのです。(暗闇の中で良かった)これだけで今回の旅の最高の思い出になりました。強烈な思い出を胸にバスはホテルに、全員、弁当箱を大事そうに抱えてのチェックイン。何とも感動的シーンの後にしては格好悪ル・・・・・・・・・・・・


ワシントン二日目、この日から自由行動日となりました。関口さん達はFBIの館内ツアーをメインにするとの事、早朝から並ぶ覚悟で出発。ホワイトハウスの館内ツアーに挑戦すると言って出かけた方も・・・グッドラック!
我々のグループはケネディ家のホームグランド・ボストンへの小旅行を企画しました。私とロックフォードさん・ナッキーさんそして猫太郎さんの四名の旅となりました、とは言っても自分にとってもボストンはまったく初めての地。幸い私の大学時代の友人の「滝田さん」がボストンに20年近く暮らしているので事前に案内を頼んでおき、彼女の運転する自家用車でボストン・ケネディツアーと洒落込みました。彼女はケネディのケの字も興味なし、でも性格は承知の助!案の定、一週間前にこの日の事を依頼されてから早速案内書を買い込み、彼女なりに猛勉強したそうです。実に効率よく案内してくれました。まず最初はケネディライブラリー世界のケネディ研究のメッカとでも言うべき所、はじめはケンブリッジに建設する予定だったのですが地価の問題で十分なスペースが取れない為この地に建設されたのだそうです。






まずはケネディ紹介の映画から。20分の映画でしたがケネディの出生から大統領就任までをケネディ自身のナレーションを編集して制作してありました。ここのライブラリーの特徴は六階博物館と違って”暗殺”のあの字も無い事、純粋にケネディの業績を称え。人間ケネディを研究する場所として運営されている点にあります。左の写真のようにケネディにとって重要なターニングポイントとなった各種の現場を再現してあります。上はキューバ危機の際、全米に向かってキューバ封鎖宣言を放映した場所を再現しています。上のテレビには封鎖宣言を読み上げるケネディの記録ビデオが流れています。下は1960年の対ニクソンとのテレビ討論のスタジオの再現、同様にテレビには討論の総てが繰り返し流れています。このようなセットが19個所もありそれらの場所では当時の記録フィルムが常時流されています、そこかしこに掲示されている色々な写真類、ケネディ関連の写真については自慢じゃないけどほとんど見た事があると自負していた自分にとっても「大ショック」半分くらいはまったく初めて見る写真ばかり。さすがケネディライブラリー!各所のテレビでは重要演説のシーンやオーバルルームのケネディ一家のフィルム、各種プライベートフィルム等をふんだんに流している。確かにこれらをじっくり見ていたら3時間や4時間ではとても足りない!それにケネディ関連の世界中の書籍や写真集、ケネディ家から寄贈された各種の文書や手紙類を閲覧できる図書室など・・・・・今度は一泊二日の予定で来ようかしらん?宿もある事だし、ネッ滝田さん?





ケネディライブラリーを後に今度はボストンの市街の反対側、ブルックライン地区に向かいました。ブルックラインこそケネディ一族がアメリカの地に根を張った最初の街でありそこいら中にケネディ関連(ジョンに限らず父や兄弟姉妹)の関連施設がふんだんにある場所です。聖エイデン教会、ケネディが洗礼を受けた教会だそうです。彼の兄ジョセフ・ジュニアも又この教会で洗礼をうけたとの事。キリスト者にとって洗礼を受けた教会は、基本的にその人物の"母教会"として終生その教会員として扱われるのだそうで,、特にローマンカソリックのケネディにとっては極めて重要な位置をしめる教会と言うことになるのでしょう。残念ながら内部は見る事ができませんでしたが、古きよき時代を髣髴とさせる静かな住宅街の中にその瀟洒なたたずまいを見せていました。建物は当時のままで石積みの一階部分と漆喰塗りの小屋裏部分とのコントラストが実に見事な建物でした。



教会から数ブロック離れたところにケネディのバースプレイス、すなわち生家がありました。運転中の彼女は”この道の右側を良く見ていてね、看板があるはずだから!”ときた。車はゆっくり走っている。後部座席のだれかさん、突然”あった、あった!”自分は見落としていました、正に普通の住宅街の町並みの中に完全に溶け込んでしまっているごく普通の一軒の家がケネディ誕生の家でした、もしもこれが日本だったらごてごてした大看板を掲げて数十メートル先からでもすぐに判るのでしょうが・・・・ロックフォードさん曰く、日本だったら”ケネディ饅頭にケネディ煎餅、ケネディ人形の売店が軒をつらねているのにネ・・・”本当にそうです。「地球の歩き方」を片手に探し回っても多分見つけるのに相当苦労するでしょう、それ位に町並みに溶け込んでしまっているのです。
1917年5月29日この家でケネディは生まれたのです。でもその当時、父のジョセフは結構な地位に居た筈なのに少なくとも「豪邸」とは言い難い建物、日本流に言えば3LDK。勿論一部屋一部屋は大きいけど・・・看板には「クローズインウインター」冬期は暖房費用等の経費がかさむ為閉館しているのだそうです。ウーーム残念




生家から2ブロック離れた場所に歴史の重みを感じさせる小学校が建っていました。この学校「エドワード・デボウション・スクール」がケネディが入学した最初の学校でした。「1921年10月11日から1926年10月22日まで在籍」と書かれた記念プレートが職員室?の脇に掲げられていました。下には、ケネディ関係のコンペデイションでも有るのでしょうか毎年の優勝者のネームプレートが誇らしげに掲げられています、きっとこの学校に入学した子供たちはケネディの学んだ学舎に在籍する事を誇りに思い、ケネディ同様、毎年この学舎を巣立っている事でしょう。未来の大統領を夢に見て。ところで、6階博物館にケネディの小学校時代の通信簿が有りましたが、すべてBとCでしたね、Aは一つも有りませんでした。この時までは自分の方が勝ってた?のに。この差はなんなんでしょうかね?



ケネディ走る!
正に46年の短い人生を走りぬけたケネディでした。
この銅像はマサチューセッツ州議会議事堂の傍らに建っていました。壮麗な威容を誇る州議会議事堂の左手脇です。ケネディは州議会議員にはなった事はない筈ですがやはりケネディはボストンいやマサチューセッツの誇りであるに違い有りません。マサチューセッツ第11選挙区の地盤は、ケネディがロバートに譲り、さらにエドワードに引き継がれています。現在もなおエドワードはこの選挙区を地盤に上院議員として選出されており絶大な人気を持っているのだそうです。ジョン・ジュニア亡き後、ケネディ一族の精神的柱としてのテッドの今後が注目されます。でも外見上ですが、いかつい顔に似合わず、どこか”線”が細いように感じるのは、チャバキディックの亡霊をいまだ引きずっていると思うのは自分だけでしょうか?



ユニオン・オイスター・ハウス 18番 ブースにて

左から ナッキーさん・ロックフォードさん・私・福太郎さん


最後の極めつけが「ユニオンオイスターハウス」下院議員・上院議員時代にケネディがボストンに帰った時には必ず寄ったと言われるレストラン。しかも、その店の18番テーブルブースが彼の指定席であったそうです、食事時にはいつもそのボックスで新聞を読んだり資料整理をするケネディの姿が見られたのだそうです。滝田さんが店の人となにやら話している。そして自分に向かってウインク。その18番ブースが空いているとの事「ラッキー、ラッキー!もう最高!」18番ボックスの客に収まったのでした。席の横には記念のプレートが張ってありました。「よっしゃ、これで僕とケネディは”尻合い?”の仲!」と、お尻で座席をこすりました。そしたらナッキーさんが「僕なんか”糞頚の友?”になっちゃった。」彼はレストランのトイレに行っていたのです。これには”負けた!”
食事は牡蠣料理と共にこの店の名物、ロブスター料理、きっとケネディも舌ずつみを打った料理であったのでしょう。でも、あまりに大きなロブスターに悪戦苦闘してしまいました。それでも注文の時には大中小の小を指定したのですが。ふと時計を見るとすでに4時近くなっている。ボストンのフライトは5時です。食事を満喫するゆとりも無く空港に向かいました。時間との競争!空港内を全力疾走、飛行機に乗り込んだ瞬間、ドアが閉められ、即スタートの冷や冷やものでした。その為、彼女に十分な挨拶やお礼も言えず申し訳なし。この場を借りて「感謝!感謝!」





いよいよ今回の旅の最終日を迎えました。自分のお仕事からまったく解放される唯一の一日です。取り敢えず約束をしていた友人と会ってチョットした交渉事を済ませました。
別れた後、自分の足は自然にアーリントンに向かっていました。一人でブラブラと小道を歩きケネディの墓に、空からは冷たいものが落ち始めている。傘も持たずに彼の墓の前で旅の思い出に耽っていました。すると一人の老紳士が近寄ってきて話し掛けてきました。「さっきからずっとここに居るが、何処から来たのか?」「日本」「なぜこの場所にずっと居る?」「ケネディが好きだから。」「私もだ。月に一度は必ずここに来る。」僕のブロークンな英語を一生懸命理解しようとしている。ケネディと同世代のような老紳士は、僕に解るようにゆっくりゆっくりと思い出を話し始めた、僕には半分位しか解らなかったけれど、間違いなく老紳士の思いは伝わってきました。最後に「良い感謝祭を。」と言って階段を降りて行く老紳士の後ろ姿を見ながら「彼はきっとケネディに違いない。」と思ったのでした。そうに決まってる・・・・・
日の傾きはじめた墓地の永遠の炎に「また、必ず来ます。」とささやいてアーリントンを後にしました。


閑話休題





"ウオーレン委員長、ジョンソン大統領に報告書提出"
のシーンをまねた訳ではありません。今回の参加者ロックフォードさんが、ご自身の貴重な蔵書の一冊を自分にプレゼントしてくれました。自分は持っていない事を知ったロックフォードさんが”差し上げます”と言い出したのです。小生感激と同時に「いいんですか?」頂いた書籍は、ケネディ暗殺事件に初めて疑問を投げかけ「狂人が狂人を殺したのか?」で有名になった古典中の古典!トマス・ブキャナンの「誰がケネディを殺したか?」の翻訳本です。今回はロバート・ゴードンの「大統領殺害」のハードカバーを本屋で購入できたし、このブキャナンの本を思いがけず手にする事ができるなど "本"に縁のある訪米になりました。

"エルム通りに大統領専用車、走る!"
22日の12時30分、黙祷を終えた自分の目に飛び込んできたのがこの大統領専用車、ご丁寧に射撃音まで響かせて走り抜けて行きました。JFKランチャーのご愛嬌だった様です。でもせっかくここまでやるのなら考証までしっかりやって欲しかったですネ、ソックリさんとまでは言いませんが座席の配置などメチャクチャでした。



旅行後、参加者の皆さんから寄せられた感想を
ご披露いたします。(総て原文のまま)来年は皆さんもこの感動を!
前田 哲也さん(非会員)
映画のJFKによって、暗殺事件に興味を引かれた私ですが、今回のツアーでは、映画でみたことそのままに 実体験できたことが、私の人生において何よりの収穫でした。 何事も経験、実績を重視する私にとって、映画の世界ならびに真実に実際に触れられたというのが、自分自身をまたひとつ成長させたという気がします(ちょっと大ゲサ ですが)。ダラスでは、ウォーレンリポートの矛盾点、不可解点などを、現場検証することによって、あらためて真実を知ったという感動を得ました。2発めの銃弾が当たった位 置、教科書ビルの6Fの窓の位置、バッチマンがいたと推測される位置などなど、実際の場所に立つことで、なぜこんなリポートがまかりとおるのかという疑問が、素人の私でも実感できました。 また、犯行後のオズワルドと同じ足取りで、テキサス劇場まで行きましたが、そこでは、彼の視点から風景を見、当時の状況を想像し、映画とは違った観点からの衝撃を受けました。彼はその時どういう気持ちで、どういう時を過ごしたのか。それはとても私達には想像できるものではないでしょう。  ワシントンDCでは、アーリントン墓地の永遠の炎が、深く目に焼きつけられ、同時 に偉大なケネディ大統領の冥福を祈りました。リンカーン記念堂から見えた永遠の炎は、きっと忘れることはないでしょう。  これらは、私が感動したごくごく1シーンで、今回のツアーはそんな1シーンがいく つも積み重なったまさに映画のような旅でした。自分がオリバーストーンになったようで、毎日が刺激的で衝撃的でした。 なかなかこんなツアーにはお目にかかれないのではないでしょうか。 また是非次回のツアーにも参加してみたいと思います。

中北 幸夫さん(会員名 ナッキー)
最終日の夕食会でも申しあげましたが、“行ってよかったーーーーー”というのが一言での感想です。 初日、わくわくどきどきしながら、デイリープラザに行った興奮は、今もさめてはいません。映像や、写真でしか見たことの無い場所に立ち、36年前の同じ日、同じ時間、同じ場所で、ケネディが吸った空気を同じ場所で吸っていることに関する気持ちは、言葉になりません。 デイリープラザの感想は、すべて前田さんのHPにあることばかりなのですが、狭い場所であり、思いのほか急な勾配があることについては、想像以上でした。何よりも、グラシノールと道路上の×印との距離があまりにも近すぎることをこの目で見たときは、グラシノールからの銃声があったのならば、群集が気づかないはずが無いのでは?との疑問を持ちました。矛盾する情報などもあえて加えて、結論を1つに絞り込ませないような操作を含め、暗殺チームのレベルは、超一流のものであったことを改めて実感しました。今度ダラスに行く機会があれば、最低半日は、デイリープラザで過ごしたいと思います。 テキサス劇場や、住居を含め、オズワルドの生活に密着した地域(決して豊かとは言えない気がする。)を見学して、36年前の事件では、オズワルドは、最も不幸な人物の一人であるという思いが立ち込めてきました。組織のための任務を忠実にこなした後の結論が“死”という結果であったわけですから..... ワシントンでは、映画JFKのシーンにあるジムギャリソンとX大佐とのやりとりを、ロックフォードさんと私とで演じて、ビデオに収めようとしたのですが、おそらく様にならないであろうとの理由からボツとしました。 ここでは、何といってもアーリントン墓地です。永遠の炎を見つめていると、ボビーをはじめとするケネディ家の残された人たちの気持ちが分かるような気がします。(個人的には、ジャッキーのお墓は、ここに無くても良いような気がするのですが......) また、この場所から見渡すワシントンは、絶景であり、ワシントン(アメリカ)は、永遠にケネディに見守られているという感じを受けました。デイリープラザでよりも、むしろこの場所でのほうが、いろいろな思いが僕の頭の中を駆け巡りました。ワシントンについては、次の機会には、もう少し時間をかけて詮索したいと思います。 そしてボストンです。 ここはとにかく雰囲気が違う。 一つ一つの建物、街の感じが、アメリカというよりは、ヨーロッパという感じで、重みがあるように感じました。育ちの違いについては、今までそれほどの重要視はしていませんでしたが、同じ人物であっても、ダラスのダウンタウンで育つのと、ボストンで何不自由なく育つのとでは、当然違った人格の形成のされ方になるでしょう。 当初、ケネディが生まれた家として抱くイメージは、その界隈では、当然の事ながら1番の豪邸で、広い庭にプールやテニスコートがついているのは当たり前、何台も車をとめられるようなスペースがあるものだというものした。しかし、実際には、近所の家と同レベルで、“えっ、これが?”というのが正直な気持ちでした。 ボストンで1番感激だったのは、ケネディがよく食事をしたレストランの、いつも座っていた席で食事ができたことです。この件に関しては、前田さんと、滝田さんにただただ感謝するばかりです。

小澤 正治さん(会員名 猫太郎)
ダラス初日はホテルでの前田さんの基調講演のみかと思って いたところ、いきなり事件が起きなければ昼食会の会場になる はずだったトレードマートを訪問したり、車中から22日のお楽しみのデイリープラザをみたり、前田さんの長旅の疲れを吹き飛 ばすような熱のこもった講演があったりで期待どおり(!)の展開で初日から心踊り、翌日22日のダラスは「来てよかった!」 と心底思える一生忘れられない1日となりました。 デイリー広場のグラシノールの周辺のスペースは想像より狭く ザプルーダー、ニューマン親子、木の柵の裏側の銃声の聞こえた証言があった場所の位置に立ってみると、少なくとも銃声の方角についての証言は間違えようが無いような気がしましたし、 リー・バウアーズのいた鉄道操車塔、テーグのいた陸橋付近、 モーマンのいた場所からのグラシノールの見え方等、さまざまな現場の距離感が実感できたことが本当に嬉かったです。 何よりもデイリープラザに半日も滞在でき、暗殺事件に興味を持っている会員の皆さんとこの空間を共有していることが私には感動的で、12時30分のオープンカーの走行は36年前にタイムスリップしたような心地でした。その後のパレードコースの試走、 パークランド病院、テキサス劇場、ティピット殺害現場、オズワルド の下宿等、事件当日のダラスの混乱エリアを効率的に廻れたこと も貴重なものでした。もし私が個人旅行でダラスを訪れても多分 あそこまでは出来なかったと思いますから。そういった意味で 前田さんというキーパーソンの方に見所を解説してもらいながら 専用車で巡るいうことは本当に贅沢なツアーだったんだと思います。 またダラスの他ワシントン・アーリントン墓地のJFKの永遠の炎、 ロバート・ケネディの墓の前での不思議な感動や、ボストンでの オプションツアーのJFKお気に入りのレストランでの食事もダラス とは違った意味で感慨深いものでした。ツアーで御一緒したHP 会員の方々とのアフターファイブも堅苦しくなく楽しめ、生まれて はじめてのガン・シューティングまで体験してしまいました。 さて今はツアーの余韻に未だ浸っている状況ですが、前田さんを はじめJFK研究を緻密にやっておられる方との接触も持てました ので、これからはアドバイス等をいただきながら事件とJFKに アプローチが出来たらと思います。 最後にツアーの実現に尽力されツアーでも大変お世話になった 前田さん、夕刊フジ、日本旅行の関係者のみなさんに感謝いたしたいと思います。長年の夢を実現できた一人として、今回の参加者のようなケネディストを募ったツアーがまた実施される ことを切に希望する次第です。

山根 朋行さん(会員名 トム)
先日はお世話になり本当にありがとうございました。 おかげさまで素敵な思い出ができました。本や情報じゃなく本当のケネディに触れる事ができたような気がします。デイリー広場、ワシントンDCなど 今でも鮮明によみがえってきます。 普通のツアーではこんなマニアックな企画は難しいと思いますが、前田さんのおかげで夢が実現できました。また、海外旅行がこんなに楽しいと言うこともわかりました。もっと早く気がついていればと悔やんでいます。 本当にありがとうございました。 これからもケネディストとして色々な角度からケネディを理解していくつもりです。 再度アメリカに行きたいとも思いますが、次はロシアかイスラエルを廻って見ようと思っています。 (それまでには語学力をつけ1人で旅ができるようにならなくては・・・)

濱田 光浩・三恵ご夫妻(会員名 ハマダ)
偶然見つけたHPだったのですが、思いがけず前田さんをはじめ JFKに大変興味を持っている皆さんとテキサスを訪れた事は、 私にとって本当に感激でした。 私なりに改めて色々と考える所もあったし、 資料でみたり、本で読んでいた事と譴髯・訪れた感じとでは 全く印象が違うものだなあと思いました。 2039年を待たずして、僕には誰が犯人分かりました。(分かった気がします) ツアーに参加する前は、ケビンコスナーのファンだったので、 彼の映画を見た事があるくらいという感じでした。 ただの旅行ではなくて、とても有意義で楽しい旅になったと思います。 前田さんをはじめ、参加感米・ぢにのめり込みそうです。HPの更新楽しみにしております。

中出 忍さん(会員名 ロックフォード)
最初にこの“オフ会”についてのメールが届いた時は『行きたいけど 無理だろうな!?』が正直な感想でした。そんな感じで妻に軽く話し たところ、答えは以外にも『行ってくれば〜』・・・この一言で私の初め ての海外旅行は実現しました。それも“ダラス”・・・ん〜渋すぎる!! 結論から言って、今回の“オフ会”参加は私にとって大成功でした。 21日の成田出発日迄には“パスポート”の取得やら資金調達etc 唯一つ“タンコブ”は予定外であり不必要でしたが、兎に角夢にま で見たアメリカ旅行に取付かれた準備期間でした。 さて、待望の“ダラス ワシントンD・C ボストン”ですが正直言って 私まだ夢見心地でして、興奮状態です。だからまだちゃんとしたレポ ートなんて書けません。でも、提出期限もあるので感想だけでも出し ましょう。 “ダラス”のディリ―プラザ広場は、参加された皆さんも仰っていまし たが以外に“狭い”フィールドであったと言うのが正直な感想です。 しかし、私にとってそこが狭かろうが広かろうが、36年前TVに映し 出された“JFK”の暗殺現場。それを見ていた、当時6歳のハナタレ 小僧だった自分がその現場に今来ている。もうそれだけで私には 満足でした! “ワシントンD・C”は映画で何度も行った事のある、“お馴染み”の 街でしたが、やはり実際に行くのと見るのは違いますね〜。残念 だったのは、FBIツアー&ホワイトハウス見学ツアーに混ざれなか ったこと位で、やはり“アーリントン墓地”での“永遠の炎”には感激 しました。この場所こそ映画やNEWSフィルムで何度も何度も見てい るのに、ディリ―プラザと同じでそこに立ち、そこの空気を今自分が 吸っている!その“現実”に心が揺さぶられました! “ボストン”は直前でオプションから外れるやらで、何となく意気消沈 気味(二日酔いでもあった!)での参加でしたが、正直私にとって今 回の旅行で一番気に入った街です。アメリカ発祥の地という歴史的 な街なだけに、車ではなく“歩いて”見て廻りたい美しい街でした。 特に『UNION OYSTER HOUSE』というJFKごひいきのレストランで それも彼が何時も食事をしていた同じ席で“ロブスター”を食べられた のは感激でした。この店こそ小学生の頃読んだ「世界の偉人全集」の ケネディ本文中に書かれていた、JFKがジャクリーヌとよく来たお店に 間違いありません。本を読んだのが確か5年生頃なので、これも何と 31年後に自分がその店でロブスターを食べているなんて、夢に見るど ころか想像したこともありませんでした。旨かったな〜。トウモロコシや 茹でたジャガイモも出たけど胸が一杯で食べられなかった。もまだ少し 二日酔いだったのだけれども。 まだまだ沢山の思い出があり、本当に初日から帰国する迄の全ての 場面が脳裏に焼き付いています。参加して良かったと心から思ってい ます。 前田さんを始め産経新聞の方々、最終日一緒に徒歩でワシントンを見 学したOさんNさんYさん、頼んだFBIツアーのお土産を買って来てくれた Hさん、ボストンでの前田さんのお友達(お世話になりました。)その他 参加された全ての皆さんにここでお礼を言いたいと思います。今回の“ オフ会”は私にとって生涯忘れられない素適な経験になりました。皆さ ん本当にありがとうございました!!


企画スタートから半年あまり、ついに実現したダラス・オフ会でしたが皆さんご満足頂けたでしょうか?今回参加できなかった方々も是非、来年はご参加下さい。今度は皆さんのご意見もお聞きして出来るだけ参加しやすいものにしたいと思っています。乞ご期待
今回の旅行に関して産経新聞の堂本さんや内山さんのご努力に心より感謝いたします。又添乗員として縁の下の力持ちの役割を務めて頂いた西脇さん、仕事とはいえ有り難うご座いました。この場をお借りして皆様に感謝いたします。