1972年6月17日午前2時30分、ワシントンのウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会本部に侵入した5人の男がガードマンにつかまった。これが事件の発端である。逮捕されたのはジェームズ・マッコードバーナード・バーカーユージオニ・マルチネスフランク・スタージスパジリオ・ゴンザレスの五名である。これらの人物の取り調べから、ホワイトハウスの指示によるスパイ計画が暴露され、何人もの政府高官が関与していることが発覚した。元司法長官(事件当時はニクソン大統領再選委員会の責任者である)ジョン・ミッチェル、ホワイトハウス法律顧問ジョン・ディーン、ホワイトハウス首席補佐官H・R・ハルドマン、ホワイトハウス国内問題担当特別補佐官ジョン・アーリックマン、そしてニクソン大統領本人である。 大陪審による事件の調査が開始されてから約1年後の1973年4月30日、ニクソンはハルドマンとアーリックマンの辞任をうけいれ、ディーン法律顧問の解任を発表した。司法長官のクラインディーンストも辞任した。新たに司法長官に就任したエリオット・リチャードソンは、ハーバード大学法学部教授のアーチボルド・コックスを特別検察官に任命して、事件の徹底的な調査にあたらせた。 1973年5月、大統領の活動に関する上院特別委員会の公聴会が、ノース・カロライナ州選出のサム・アービン議員を座長としてひらかれ、おどろくべき事実が次々に明かされた。この公聴会でディーンは、ミッチェルが侵入を命令したこと、ホワイトハウスが事件のもみ消し工作をしたこと、さらにニクソン大統領が侵入犯に口止め料をはらうといったことなどと爆弾証言をしたのである。当然、ニクソン政権はこの事実を強く否定したのであった。

証拠のテープをめぐる攻防

事件は、ホワイトハウス補佐官アレグザンダー・バタフィールドの証言から、調査は新たな展開をみせた。1973年7月16日、全米にテレビ放映された特別委員会の証言台にたったバタフィールドはディーンの証言以上の爆弾発言をしたのである。ニクソンはホワイトハウス内部におけるすべての会話を録音するよう指示していたので、大統領がいつ、どのようなことをいったか証明できるというのである。(実はこのホワイトハウスでの会話の録音。さらには、政府高官の日常的な通信盗聴は機密情報漏洩防止の名目で以前から恒常的におこなわれていた。特に大統領執務室での録音・国家安全保障会議の秘密録音を最初に始めた大統領は実はケネディであった、さらに次のジョンソンの時代には、より幅広く政治的な盗聴行為が日常化していた。)コックスはディーンの証言を確認するため、そのテープをただちに提出するよう命令した。しかしニクソンは、国家の安全保障にかかわるという理由で拒否した。しかし、連邦地方裁判所判事は、ニクソンがテープを提出すべきだとする判決をくだし、連邦高等裁判所もこの判決を支持した。 ニクソンは強硬な姿勢をくずさず、テープの提出を拒否。1973年10月20日、コックスの解任を司法長官リチャードソンに命じた。リチャードソンはこれを拒否して、みずから抗議の為に辞任。司法次官のウィリアム・ラッケルズハウスまでもが抗議の辞任をしてしまったのである。世に言う「土曜日の大虐殺」である。結局は司法長官代理がコックスを解任してしまったのである。 この処置に対して、国民の抗議の声があらしのようにまきおこった。そこで、ニクソンはテキサス州の弁護士レオン・ジャウォスキを新たに特別検察官に任命し、会話の録音テープを判事に提出した。このテープに録音されたオーバルルームでの会話はとても大統領の発言とは思えないような粗野な言葉、差別的な言葉の連続で世論を唖然とさせたのであったが、しかし、テープにはなぞの空白部分があった。専門家の鑑定では、会話を5カ所もきれぎれに削除したものとされた。まさに侵入事件の核心に触れる部分が削除されて居たのである。 1974年3月、大陪審はミッチェル、ハルドマン、アーリックマンのほか、ホワイトハウスの高官4人をウォーターゲート侵入事件のもみ消し工作にかかわったとして起訴し、ニクソンを「起訴されない共同謀議者」であるとして告発したのであった。翌4月、ジャウォスキの要請にしたがって、ニクソンはさらにテープの会話を書面に記録して提出した。この会話記録から、手段をえらばず、政敵をおとしいれ、事件の調査を妨害しようとしていたことが明らかになった。 1974年5月、ジャウォスキは起訴された高官たちの審理の証拠品としてさらにテープの提出を命じたが、ニクソンはこれも拒否した。7月24日、最高裁は8対0の全員一致で、ニクソンにテープの提出を義務づけた。さらに、同月29・30日、下院司法委員会は大統領を弾劾訴追すべきだとの決議を採択。訴追理由として、ニクソンが大統領の権限を乱用して米国市民の憲法上の権利を侵害したこと、事件の公正な調査を妨害したこと、司法委員会からのテープ提出要請に応じなかったことの3条項があげられたのである。

新たな不正の発覚

ウォーターゲートのスキャンダルが明るみにでてまもなく、調査官は関連する一連の違法行為をつきとめた。1971年以後、ホワイトハウス内にアーリックマンの指導のもと「鉛管工」とよばれる秘密活動担当グループが発足した、このグループの中心的人物がハワード・ハントである。彼等は、違法な手段をつかって、マスコミへの情報もれをふせぐ工作をしたり政府部内における諜報破壊工作を担当していたのである。大陪審は、1971年に精神分析医の診療所に侵入してダニエル・エルズバーグのカルテを入手しようとした容疑で、アーリックマンとホワイトハウスの特別顧問チャールズ・コルソンらを起訴したのである。(エルズバーグ事件)このアーリックマンらの行為は、ペンタゴン・ペーパーとよばれる機密書類を公表したエルズバーグの名誉を失墜させることが目的だった。 さらに、ニクソン政権が選挙資金として違法な献金を大量にあつめていたこと(この金は政治スパイの資金につかわれ、ウォーターゲート・ビルの侵入者たちには50万ドル以上がしはらわれた)、また一部の政府高官がビル侵入事件への関与をもみけすために偽証したことも発覚した。そのうえ、ホワイトハウスの補佐官たちの証言から、1972年に彼らがにせの書類を作成して、1963年におきたゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領の暗殺にケネディ大統領がかかわったようにみせかけたこと、ハンフリー上院議員を不道徳な行為をしたとして中傷する偽文書を書いたことも明るみにされたのである。

ニクソンの辞任で決着

こうしたさまざまな違法行為が発覚するにつれて、議会内のニクソン支持勢力は弱まり、国民の支持率も一挙に低下した。1974年8月5日、3本の会話録音テープから、1972年6月23日にニクソンが事件の調査をやめるよう連邦捜査局に命令していたこともわかった。同じテープから、政府が事件に関与していたことをもみ消す工作にニクソン自身も手をかしていたことが判明。 こうして、さしせまった弾劾をさけるため、ニクソンは1974年8月9日に大統領を辞任した。大統領の辞任はアメリカ史上はじめてのことである。1カ月後、後任の大統領ジェラルド・フォードは、ニクソンが大統領在任中におかした罪のすべてに特赦をあたえると発表。ニクソンはこれ以後、連邦の訴追をまぬがれたのである。

ニクソン辞任記者会見
ニクソン辞任テレビ発表と離任

以上が、まさに教科書的なウオーターゲート事件の経緯と事実である。実はこの教科書的な記述に異議を唱える事件研究家もいることは事実である、そちらの方はウオーターゲート事件の研究者に譲るとして、私の本来のテーマに戻ろう。はたしてウオーターゲート事件とケネディ大統領暗殺事件との係わりとはいったい何なのであろうか?

人脈そしてピッグス湾事件

まず、皆さんがすぐに気がつかれるのはケネディ事件の人脈とウオーターゲート事件の人脈が重なり合うことである。ニクソン政権内部の高官達はケネディ暗殺事件当時はまだその地位にはいなかったので別として、実行犯グループにはケネディ暗殺研究の過程で浮かび上がった人物が大勢いるのである。ハワード・ハント、バーナード・バーカー、フランク・スタージスこれらの名前はすでにこのページにもたびたび登場しているので再度この場で詳細は省くが(全文検索で関連ページをご覧ください)。特筆すべき事に、この三名は暗殺事件当日ダラスのディリー広場に居た可能性が極めて高い人物達なのである。(目撃証言、裁判、写真等で傍証されている。)そして彼等のすべてがキューバを指差して居たのである。そして、この事件にもFBI,CIAの影が深くねざしているのである。ディーン顧問やバタフィールド補佐官の内部告発の中や、ハルドマン首席補佐官の証言から、ケネディ研究家にとって驚くべき発言が飛び出してきたのである。
ウオーターゲート事件の特徴は、単に民主党全国委員会本部に盗聴器を仕掛けたグループが逮捕されたと言う事実よりも、その事件から派生した多くの暴露がニクソンを追いつめたところにある。勿論、いわゆる事件の”もみ消し工作”がその中心にあることは間違いないのであるが、その派生疑惑の一つに、ニクソンの政治献金疑惑がある。概要のなかにも触れているが、ニクソンは「鉛管工グループ」の活動資金や、侵入犯の裁判費用、家族の生活保証の名目で50万ドル以上の金を支払ったりしている。当然これらの費用は公金から支出する事は不可能であるのでニクソンの政治資金の中から支払われた、ここに疑問を感じたのがFBIである。政治家の政治献金を調査するのは連邦捜査局の専権事項である。調査の結果ニクソンの各種政治献金に幾多の疑問が発生してきた、この疑惑捜査の進展にニクソンはブレーキをかける為にCIAを使おうとしたのである。このCIAへの協力依頼の過程でニクソンが使った武器!。
献金疑惑捜査が急展開し始めたとき、ハルドマンはニクソンと次の様な会話をしたと言う。

ハルドマンがFBIの捜査に干渉する為にはCIAを利用するのがいい。と提案すると、ニクソンはこう答えた、「ヘルムズのことでは、いろいろと奴をかばってやったからな。」どんな手を打てばCIAに協力させることができるか。ニクソンは、ハントが侵入事件に絡んでいる事をテコにしてはどうか、と提案した。「ハントは色々な事を暴露するだろう。これ以上、かさぶたをいじると、大変な事に成る・・・・・・と連中に伝えてくれ、ことを荒立てると、害あって益なしだと言うんだ。今回の事件には、キューバ人だのハントだの、ペテンだの、われわれとはまるで関係ないことばかりでてくるからな。」聞いていたハルドマンには「ペテン」が何を指すのかは、解らなかった。しかし、ニクソンの話は終わらなかった。彼は窓の外を眺めていた。そしてこちらに向き直ると、
「CIAの連中に、こういってくれ。”いいか、これでピックス湾事件のすべてが明るみに出るぞ”とな、FBIに電話をかけさせて、国の為にならんから、事件にこれ以上深入りするな、といわせるんだ。・・・・もしこの一件が表面化すると、CIAもハントも非常にきまりの悪い事に成る。ピッグス湾事件の全てがブチまけられるが、これはCIAにとって、大変な不幸だ。・・・とな。」
ハルドマンはCIAのリチャード・ヘルムズ長官バーノン・ウオルターズ副長官と面談した。この席上ハルドマンはヘルムズ長官にニクソンの切り札としてこの事を告げたと言う。「大統領からあなたに伝えるようにいわれました。つまり、事件全体が、ピッグス湾事件につながっている可能性がある。もし、この一件が明るみに出ると、ピッグス湾事件の真相が表沙汰に・・・・・・」
部屋の雰囲気が突然一変した、とハルドマンは述懐する。
ヘルムズは椅子の肘掛けを握り、前に乗り出して叫んだ。「ピッグス湾事件とこの件とは、まったく無関係だ!ピッグス湾事件のことなど、まったく心配しておらん!」
沈黙が流れた。ハルドマンはただ座って、ヘルムズの強烈な反応にショックを受けていた。<ピッグス湾事件の何が彼をそうあわてさせるのだろう?>不思議であった。そして、ようやくこういった。「私は、ただ指示どうりにやっているだけだ。大統領から君にこう伝えるように言われているんでね。」ヘルムズは椅子に座り直して、「わかった。」と一言つぶやいたと言う。その場の空気は一変した。ハルドマン自身驚くべき事に、CIAは、FBIの捜査を責任持って中止させると約束したのである。
ハルドマン著「権力の終焉」より
さて、この事実からいったい何が連想されるであろうか。すでに皆さんご承知のとうり、ピッグス湾事件以降展開されたカストロ暗殺計画いわゆる”マングース作戦”のCIA側の責任者の名前はリチャード・ヘルムズ計画担当副長官であった。そして、この計画はケネディによって中止された。しかし水面下で計画を続行していたCIAに対してロバート・ケネディ司法長官は警察力をもって作戦秘密基地を襲撃し解散させている、その秘密基地の一つにデビット・フィリーが居り、ハワード・ハントはそのCIA側の派遣責任者であった。さらに付け加えるのならカストロ暗殺の為のマングース作戦プランは、そのままケネディ暗殺作戦プランに移行した可能性が指摘されて居るのである。
後日、ハルドマンはニクソン大統領がピッグス湾事件に言及する時は、実はケネディ暗殺事件の事を指して居た事を知る事になる。

民主党本部侵入の謎

1972年は大統領選挙の年である。この前年71年からこの年72年の事を思い出して頂きたい、ベトナムの反戦運動は最高潮に達し、国民の間には厭戦気分が充満していた。このベトナム反戦気運のなかから政治的には無名であったジョージ・マクガバンが民主党内で基盤を固め、いわゆる”マクガバン旋風”が吹き荒れ民主党の各大統領候補の中では大統領本選では最も弱いとされていたにもかかわらず、民主党の大統領候補に指名されそうな雲行きであった。(事実そうなった。)それに対して再選出馬を表明していたニクソンの人気はまさに最高潮にあった。5月8日の北爆とハイフォン湾の機雷封鎖によって北ヴェトナムの前進をくいとめ、北ヴェトナム首脳を始めて和平に向け真剣に動き出させる事に成功、パリ和平会談の開催がとりざたされていた。加えて有名なキッシンジャー隠密外交によってソ連や中国に対する外交上の努力は成功を収め、2月20日の歴史的な中国訪問を成功させて居たのである。
事実、この時点で11月の大統領選挙におけるニクソンの勝利は確実であった。
そのような時期の6月である。
アメリカの政治通は、ウオーターゲート事件の発生そのものに、三つの疑問を投げかけて居る。一つ目は前述のような時期に、ニクソンが相手側の政治的情報を取る為になぜ危険を冒して侵入犯を送り込む必要があったのか?二つ目に侵入犯を送り込むのに、なぜ民主党全国委員会本部を選んだのかと言う事である。全国委員会本部などと言うものは、一種の全国大会の前の飾り物に過ぎない。重要な価値のある政治情報などと言うものなど有りはしないのである、本当に価値のある情報はすべて候補者の選挙事務所にあるのである。三つ目に、民主党本部に侵入した犯人達が、ローレンス・オブライエン民主党全国委員長の電話機に盗聴機を仕掛けたのはわかるが、なぜラリー・オリバーのような下級職員の電話機にまで盗聴機を仕掛けたのか?もし、侵入犯達が政治的情報を欲して居たのならば、オブライエンについでナンバーツーの地位にいた経理責任者のロバート・ストラウスの電話をなぜ盗聴しなかったのか?加えて、まさにプロ中のプロ(マッコードはCIAにおけるトップクラスの盗聴マンであり最高の電子技術を持って居た)である侵入犯達が仕掛けた盗聴機が、選りによってオブライエンの電話機に仕掛けたものが機能しなかったのか?
この三つの疑問には極めて妥当性がある、もし本当にニクソンが直接的ではないにしても民主党本部への侵入を指示したとするならば、この三つの疑問に同時に回答できるものがなければならない。とするならば、こんな推理は成り立たないであろうか?
彼の目的は、決して政治的な情報を得る為の盗聴機設置が本来の目的ではなかった。彼の欲して居たものは、現状の圧倒的な優位を一夜にしてひっくり返す事ができるような文書もしくは記録ではなかったのか?その”何か”の管理者がラリー・オリバーであり、その”何か”が全国委員会本部のどこかに隠されて居る可能性がある情報をキャッチしたからではないだろうか?
それほどまでの、核爆弾クラスの”何か”とはいったい何なのであろうか。ニクソン流に言う所の”ピッグス湾事件”に関するものと言うのは、考え過ぎなのであろうか?

謎のキーマン”チャールズ・コルソン”

1972年の事件発生直後、このニュースがホワイトハウスの高官達に流れた時にほとんどすべての人がチャールズ・コルソンの顔を浮かべたという。「彼ならばやりかねない。」と。では、このチャールズ・コルソンとはいったいどの様な人物であろうか。かれの肩書きは”政治特別顧問”である。彼はニクソン大統領の腹心の殺し屋であり、ニクソンの”ヤクザ政治”の演出をした人物である。事件以前からこの”荒事師コルソン”には非難が集中していた、ホワイトハウスのトップ職員である内政担当大統領特別補佐官のジョン・アーリックマンや閣僚であるジョン・ミッチェル司法長官などによって統制されるべき政治帝国、そこにコルソンは尊大に肩で風を切って立ち振る舞っていたのである。彼は、ほかの誰が不平を鳴らそうと、どこ吹く風であった。「ニクソンだけが俺のボスだ。」と言ってはばからなかった。事実、民主党においてニクソンの最大の政敵と目されていた、エドワード・ケネディ上院議員の政治生命を絶ちきった、あのチャバキディック事件(1969年7月18日E・M・ケネディ上院議員が自動車事故を起こし、同乗の女性秘書メアリー・コペクニーを死亡させた事件)を政治的な大スキャンダルにまで発展させた作戦から、ITTの独占禁止法違反にからむスキャンダル事件(ITTがおこなった企業買収にかんしてニクソンの意向を無視して司法省が独占禁止法に基ずき訴訟を起こした事件、ニクソンとITTの癒着が明らかになるのを恐れ公然とホワイトハウスが司法省に介入した事件)のような抗争事件まで、常に、ニクソンはコルソンの背後で糸を操つり、彼が実行していたのである。すなわちニクソンの好んだ政治的陰謀・政治的スパイ作戦の実行部隊の責任者としてホワイトハウス内に存在意義があったのである。後年、ニクソンが計画しコルソンが実行しようとしていた数々の政治的陰謀計画は、ニクソン攻撃の急先鋒であったニュースキャスター、ジャック・アンダーソンに、番組が始まる直前に覚醒剤を飲ませると言った計画や、新聞記者ハンク・グリーンスパンが所持していた、幻の大富豪ハワード・ヒューズのニクソン関係秘密書類を奪い返す計画などが実行寸前までに準備されていた事が明らかになっている。こんなコルソンが腹心として使っていたのがハワード・ハントであるニクソン・コルソン・ハントのラインがいったいいつの頃から引かれていたかを知るすべはない。しかし、ニクソン自身が「数十年の付き合い。」と称している以上、1963年はその範疇に入る筈である。
ウオーターゲート事件の末期にコルソンは、ハントとともにニクソンを脅迫していた事実がすっぱ抜かれた、コルソンは、彼がニクソンとウオーターゲート前後にニクソンと交わした電話を全部録音していたのである、ウオーターゲート騒動のあいだ、ニクソンが喋った内容の全てがテープに記録されていたのである。この脅迫事件ののち、ニクソンは表向きコルソンをホワイトハウスから追放している。しかし、かれの再就職先は驚くべき事に、例のジミー・ホファーの率いていたチーム・スター・ユニオンの顧問弁護士であった。さらには、ニクソンがウオーターゲート事件について語る時、ついに、チャールズ・コルソンの名前は彼の口から出る事はなかった。
現在、ウオータゲート事件のイニシアティブはコルソン経由でニクソンからきた、ニクソンがマッチを擦りコルソンに手渡した、そしてコルソンが導火線に点火した。と言う筋書きが有力であるにもかかわらず。
今、コルソンは、アメリカの或る宗教団体の伝道師としての日々を送っている。寝業師、荒事師と称された人物の大変身である、はたして彼の宗教への埋没はいったい何を意味しているのであろうか?

プレミアホテル

蛇足ですが、昨年ケネディメモリアルツアーにアメリカを旅した時、ワシントンで宿泊したホテルがジョンソン・プレミアホテル。
このホテルこそウオータゲート事件で盗聴装置を仕掛けた「鉛管工」達が陣取って盗聴工作をしていたホテルなのです。窓から覗くとまさに格好の立地です。現在その客室は記念?部屋として宿泊客が見学できるようになっていました。実に商魂たくましいと言うか、ご立派!
地下鉄の駅から徒歩5分くらいにあり、モールにも徒歩圏内です。それになんと言っても”安い”のが非常にありがたいです。ワシントンへの旅にはおすすめできます。日本の旅行社から直接予約もできました。

ホテルの部屋からウオーターゲートビルを望む。