ケネディの内政政策のなかでも、黒人公民権政策はその及ぼした影響からいって特筆に値する。それはアメリカ社会、特に南部白人層に根強く植え付けられた既成観念を頭から否定するものだった南部伝統保守主義者達はそれを、正面きってのケネディの挑戦と受け取った。事件の影響は南部超保守派層にケネディ不信の芽を植え付け爾来彼を敵と呼んではばからなかった。改めて述べるまでもなく史上最大の内戦である南北戦争は言い換えれば奴隷解放戦争であり、リンカーン大統領の演説からも解るとうり奴隷解放、言い換えれば黒人開放はすでに100年の歴史をきざんでいた。しかし、南部地域では公然と奴隷差別、黒人差別は続いていたのである、歴代の大統領はこの問題に関しては聖域視し、だれも手をつけなかった、そしてケネディがその聖域に足を踏み込んだ最初の大統領になったのである。

当時の黒人差別の実態映像

1962年秋、黒人学生ジェームズ・メレディスが白人ばかりのミシシッピー大学に入学した事件の為、ミシシッピー州と連邦政府は真っ向から対立する事となった。この事件は南北戦争以来最も深刻な州対中央政府との衝突であった。しかし事件後、人種平等の原則と法の遵守のみならず、大統領権限の強化にも影響した事件でもあった。そしてワシントン大行進に象徴される黒人公民権運動は大きな広がりを見せ現在にいたっている。

ワシントン大行進
キング牧師の夢演説


メレディス事件

1961年9月メレディスは生まれ故郷のミシシッピー州オックスフォードにある公立学校ミシシッピー大学に入学を申請した。入学が認められないため起こされた訴訟は最高裁判所までゆき、入学許可の判決が確定した、しかしながらミシシッピー州政府、大学当局の判決無視はつずき、ついに裁判所はロス・バーネット州知事とポール・ジョンソン副知事に対し法廷侮辱罪の適用を勧告すると同時に連邦政府に対して強制執行の手続きを指示したのであった。大統領と司法長官はこの責任を引き受け、着実にそして慎重に手を打っていった。それは、バーネット知事を南部保守主義者の殉教者に仕立て上げさせたくなかったからでもあった。
1962年9月事態は急速に悪化していった。それまであらゆる手立てをつくしてメレディスを無事入学させる努力がなされていたが、ミシシッピー州軍の連邦軍への編入さらには連邦軍の出動の大統領行政命令の布告を期に、知事の抵抗もそれまでと悟ったのであった。そして運命の9月30日を迎えたのである。この日大統領は全国民に向かって一連の経過の報告と自身の信念をテレビ演説する事になっていた。それを聞いたバーネット州知事は二つの提案を持ち出した、「自分を大学の玄関前に立たしてほしい。その時連邦保安官が私にむかって銃を構えてほしい、その時私はひきさがる。」「メレディスを誰にも解らないようにこっそりと大学に引き入れてほしい、自分は知らなかった事にするので。」さらに知事は、多数の州警察官を大学構内に配備するので不測の事態は責任をもって回避するからとも付け加えた。要するに自分自身の南部保守主義者に対するメンツを立てさせてほしいと言っているのである。
大統領はこの知事提案に同意した、知事自身を法廷侮辱罪で逮捕したり連邦軍を派遣する事はケネディの本意ではなかったからである。その夜メレディスはジェームズ・マックセーン主任執行官・ニコラス・カッツエンバック司法次官補に率いられた550人の連邦保安官に護衛されて無事大学構内に入った。

ミシシッピーは降伏しない

大統領が全米放送を予定していた午後10時前にバーネット知事は「メレディスは、私の知らぬ間にすでに大学構内に入った」と声明を発表してしまった。さらに大統領に200名の州警察官を構内に配備したので軍隊は必要ないと連絡してきたのである。ところが、この州警察官は情勢が不穏になってくると突然姿を消してしまったのである。大統領が演説を始めた午後10時頃、現地では大学構内の連邦保安官550人とそれを取り囲む不気味な群衆が対峙する構図ができあがっていたのである。
そしてその中を大統領の演説が流れた「我が国は法律遵守によって自由が永遠に守られるという原則のもとに立っている。法律を守る人々の間でも、だれにも好かれる法律というものはほとんど無いが、法律は一様に尊重されており、反抗されてはいない。アメリカ国民は、法律と違った意見を持つのは自由であるが、法律に背く事はできない。私としては、どのような手段であろうと必要な手段により、また事態が許す限りなるべく実力を行使せず混乱を起こさないで法廷の命令を実行に移す事が私の義務である。」
しかし、大学をとりかこんだ2500名の群集はこの呼びかけに耳をかすことはなかった、ミシシッピー全州、南部一帯から人種差別主義者が大学に続々と集まってきたのである。
連邦保安官達は命令を守り拳銃は抜かなかった、催涙ガスのみで防戦したが暴徒と化した群集は大学を焼き討ちしブルトーザーが大学の建物に突っ込んできた。一晩中暴動はつずき連邦保安官側に3名の死者、200名以上の重軽傷者を出した。この事態になってもバーネット知事は州警察を復帰させる事はなかった、それどころか、自分がメレディスを大学構内に入れたという裏切り行為を知られる事を恐れて、メレディスを大学から引き上げさせるように要請し続けた。これを拒否されるや州知事は声明を発表した。「ミシシッピーは降伏しない」と・・・・・
保安官達は血を流し空腹をかかえて疲れ果てていた、はたしてあとどれだけ持ちこたえる事ができるか自信が無いと、悲痛な報告が大統領にもたらされた。ここにきて大統領はメンフィスに待機していた連邦軍の出動を命令した。ケネディは悩んだたとえ軍隊が出動しても、保安官達を救出するのに間に合わないのではないか、と・・それにあれほど危機にたいして迅速に行動する連邦軍の行動は遅遅として進まなかった、国防省に連絡しても「現地にむかっています。」という返事しかもどってこないのである。(連邦軍内部にも群集に同調する動きすらあったと思われる。)10月1日午前4時になって連邦軍は現地に到着、暴徒は鎮圧され、町は平静を取り戻し、400名の暴徒が逮捕された(内、ミシシッピー大学関係者はわずか24名しかいなかった。)バーネット知事はこの時間声明を出している。今度は、暴力反対というものであった。

大統領の苦しみ

この間大統領はげっそりとして、壮絶な顔であったと言われている。一時でもバーネット知事を信用して軍隊派遣の決定を遅らせてしまった事、さらには、軍隊が自分の期待通りに動かなかったこと、もし期待通りに軍隊が行動していたならば、少なくとも1名の命を救うことができたのに、と思い悩むのであった。一晩中ケネディは待機し、電話をかけ、ようやく事態が収束に向かった午前5時、やっと席を立ったといわれている。
10月1日朝、メレディスは、保安官の一隊に護衛されて正式に入学の手続きをすませ、同僚大学生の野次と罵声を受けながら彼自身の忍苦の生活をはじめたのであった。