ニューフロンティア精神


ケネディに関して若干でも興味のある方々であるならば、必ず耳にした言葉「ニューフロンティア精神」。でも、「知ってるつもり」では無いですが、簡潔に説明できる方は意外に少ないのではないでしょうか。中にはニューフロンティアとは、宇宙の事などと一面のみを捕らえていらっしゃる方も多いかと思います。今回はケネディの提唱した「ニューフロンティア精神」に迫ります。

ニューディールとニューフロンティア

ケネディは大統領選挙戦で「ニューフロンティア」と言う政策を掲げ、これを国民に公約した。この政策の根幹をなすもの自体は特別目新しいものではない。すでに28年前、1933年、同じ民主党のルーズベルト大統領が、1929年に起こった大恐慌の克服の為に推進した「ニューディール政策」と、その精神においてはまったく同じ物である。ニューディールは、救済・復興・改革をその柱に据えたが、この内もっとも問題となり、かつ注目されたのが改革であった。ニューディールは改革によって資本主義体制を修正し、これによって再び大恐慌を招かないようにする事が大きなねらいであった。この政策は、第二次世界大戦によって中断したが、大恐慌に対する一時的な政策ではなく、戦後もアメリカの恒久的な政策となったものである。トルーマン大統領の「フェアディール政策」はその延長線上に有り、さらに、アイゼンハワー大統領も共和党としてのニューディール政策を引き継いで来たのであった。したがって、ニューディールは、時代の変化に対応して発展し当然ながらケネディの時代にも行われるべき政策であった。
ケネディの「ニューフロンティア」は、いわばニューディールの見落とした分野を追求しようと言う物であり、また、固定しかかったニューディールに新しい時代に即応するような精神を注入しようとしたものであった。加えて、戦後の大きな時代の変化やニューディールの時代には無かった新たな問題に対しても積極的に対応せざるを得なかったのである。

ニューフロンティア政策


ケネディは、ニューフロンティア政策の基本として、七つの重要政策を提唱している。
第一は、人口のニューフロンティアである。
アメリカの人口は1920年代の「移民法」によって移民を制限した為増加率が減少していたが、第二次世界大戦後急速に増加に転じ始めていた。1960年の全人口は一億七千九百三十二万余りで、過去10年間の増加率は18.5%に達していた。このように人口が増加していたにもかかわらず、経済成長率は伸び悩んでいた、トルーマン大統領の時代には、成長率は5%であったのに対して、アイゼンハワー大統領の時代には平均して2.4%にしか過ぎず、経済を拡大して、増加する一方の人口に対して仕事を提供することがケネディに課せられた急務になっていたのであった。ケネディの計算によると、1970年にはアメリカの全人口は二億五千万に達するものと考えられた。
第二は、生存のニューフロンティアである。
アメリカ人の平均余命は最近著しく延びてきていた。1960年の平均余命は、男子66.6歳、女子73.1歳となっていた。医療や医薬の進歩によって人間は驚くべきほどに長命となったのである。1930年の平均余命が男子58.1歳、女子61.6歳であったのに比べると、この20年間にアメリカ人は10年も長生きするようになったのである。全人口の割合からいっても、65歳以上の老人の数は、ほぼ10%を占めるに至っていたのである。この事は当然のことながら「老人問題」と言う新しい問題を引き起こし、老人に対する医療施設などを考えねばならなくなっていたのである。
第三は、教育のニューフロンティアである。
人口が増加するにともない、就学児童の数は増加の一途をたどり、高等教育にたいする考えも変化し、大学に進学する青年の数も次第に増加してきたのである。しかし、それに伴う教育施設は貧弱なままに放置されていた。もともとアメリカの法制度からすると、教育に関する業務は連邦政府の仕事ではなく、各州政府の所管権限ではあったが、連邦政府が間接的に援助する事は従来から行われていた。特に、ニューディールの時には、連邦政府は教育に対して積極的に色々な援助を行っている。副大統領のジョンソンは、若い時にはニューディールの教育機関の仕事をしていたのである。ケネディは、教育に関しては連邦政府がもっと積極的に施策を講じなければならない、と考えていた。
第四は、住宅及び都市郊外のニューフロンティアである。
人口増加のはげしい大都市を中心とする地帯では、都心から人々は周辺の郊外に移る傾向がいちじるしく、これは行政上、施設上の色々な問題点を産みつつあった。住宅地域の移動によって税金の問題も発生し、また交通機関の整備も一段と必要になってきていたのである。また一方では、住宅は依然として不足していた。これらの問題にも連邦政府が積極的に乗り出す必要に迫られていたのである。
第五は、科学および空間におけるニューフロンティアである。
これは要するに宇宙開発の問題である。最近の科学の発展は目覚しいものがあり、とうてい、数年前の知識や技術では満足する事が出来なくなっていた。宇宙競争では、依然ソ連に遅れをとっており、アイゼンハワー大統領は科学教育の振興を唱えたが、まだまだ不十分であった。ケネディは1970年までに月に人類を送り込み、ソ連を追い越す事を目標に掲げたのである。
第六は、オートメーションのニューフロンティアである。
社会のあらゆる分野に、オートメーション化が進み、機械が人間にとって代わるようになった為失業者が増大してきていたのである。オートメーション化の結果を人間の幸福に直接結び付けることが必要となってきたのである。
第七はレジャーのニューフロンティアである。
オートメーションの実現、労働力の拡大、人間の生命の延長、交通機関の速度の増大などによって、アメリカ人は今までよりも、より多くの余暇を持つようになった。これをいかに有効に利用するかと言う事が当面の大きな問題になってきていた。

要するに、ニューフロンティアは、連邦政府の権力を使って、より多くの公共の利益、国力の強化、進歩を実現しようというものである。これらのことを実現する為には、従来のように民間の手によっては不十分であり、それは強力な連邦政府の手によるべきことが当然と考えるのである。

推進者達

この様なニューフロンティア政策は、かつてのニューディールと多くの点で似ているし、その考え方の根本に一致しているところを数多く見出せる。大統領の強力な権限を使って、公共の利益、国力の強化をはかろうという点などがそれである。しかし、ニューディールの場合には、まず大恐慌を克服しなければならないという現実の問題の解決が先決であった。しかも、その改革の面に関しては多くの議論がたたかわされたのであった。しかし、ニューフロンティア政策は、たとえ現実に経済逆調が存在していたにしても重点はそこにおかれていたわけではなく、10年先まで見通した長期計画であった。改革といっても、すでに共和党がニューディールの基本理念を承認している以上、程度の問題に過ぎなかった。ともかく、将来に向かって総合的なプランであると言った点で、ニューディルよりも一歩前進しているものと言う事ができる。
このニューフロンティア政策を推進するために、ケネディは全米のあらゆる分野、地域から人材を集めた。州政府、大学、財団、新聞など、アメリカを作りかえる重要な仕事を受け持つのだという熱意に燃えた人々であった。ケネディによって最初に任命された高級官僚200名のうち、ほぼ半数が政治または公共活動分野における政府の官吏であり、18%が大学または財閥の出身、6%が財界の出身であった。これをアイゼンハワー政権の時代と比較するとその実務政府をめざしたケネディの思いが伝わってくる。アイゼンハワー政権のそれは、42%が財界出身、6%が大学および財団の出身であり、実務官吏の占める割合は微々たるものであった。ワシントンは活気をとりもどし、おおくのフロンティアマンが活発な議論を戦わせるようになった。彼らはなんでも試みようとした。アイゼンハワーの時代には、はっきりと決められた機能を持つスタッフが集まっていたのに反して、ケネディは、どんな問題に関しても扱う事ができる人物を集めたのである。
ニューディールの100日間のように、ケネディはあらかじめ準備した政策を一度に打ち出すというよりは、むしろ、討論に重点を置いた。それでも最初の三か月間は39通りの立案を求める教書と書簡が議会に送られ、10名の著名な外国からの来訪者を迎え、9回の記者会見をこなしている。知性が公共問題を取り扱うといった雰囲気が生まれてきた野である。しかし難問は山積していた、ラテンアメリカの貧困と混乱、ラオスの解決しがたい紛争、ベトナムでの苦しい戦い、アフリカの動乱、ソ連と中国の根強い敵意、さらにはアメリカ国内の人種差別と失業問題と、直面する問題はいくらでもあった。ニューフロンティアに結集した人々は、そのすべてになんらかの発言をし、何かを積極的に行おうと考えていた人たちばかりであった。このようにしてケネディのニューフロンティアは動き始めたのである。