世界の指導者へ


1960年と言えば、やっと第二次世界大戦の傷も癒えはじめ、未来に向かって世界中が走り始めた時期にあたる。それでも世界は第二次世界大戦の戦勝国によって運営されていたと言ってもよい時代であった。米ソの二大大国を筆頭に、イギリス・フランスの四カ国によって世界が動いていたといっても過言ではない。ソ連のフルシチョフ、イギリスのマクミラン、フランスのドゴールである。あえてこれらの四カ国に加えるとしたら、西ドイツのアデナウワー、自由中国の蒋介石であった。
これらの指導者達にとっては、自分の息子のような若いアメリカ大統領の登場は、失望と好奇心のいりまじった感情を押さえる事はできなかった。大統領選挙の時点では少なくとも蒋介石とアデナウワーは公然とニクソン支持を表明し、フルシチョフはケネディ・ニクソンの二人を「一足の靴のようなもので、右足と左足のどっちがよいか、というようなものさ。」と切ってすてた。
しかし、立場の違いは別として、各国の指導者達は、みなケネディについて知ろうとした。一方ケネディは、彼自身の立場を主張し、各国の指導者達の懐疑心をやわらげ「平和の探求を新しくはじめる」ために、早速連絡のチャンネルを改善する仕事にとりかかった。

米ソ連絡の再開

1961年ホワイトハウスの一室に、ラスク国務長官、バンディ補佐官、トンプソン駐ソ大使、ボーレン国務省顧問、ケナン駐ユーゴスラビア大使、ハリマン無任所大使の6名が集まった。ラスク・バンディ以外はアメリカにおけるソ連問題の専門家であり、全員駐ソ大使の経験者である。話し合われた内容は米ソ首脳会談の開催に関してであった。当時米ソ関係は、U2事件によって最悪の時期にあり、双方の交流は全くと言ってよいほど途絶えていた。会議では首脳会談の開催は時期尚早ではあるが、フルシチョフとの個人的な接触は、大統領にとって彼の考え方を直接聞出し、彼の言動を判断する材料として直接の印象を得るには有益であろう。との結論に達した。この結果、トンプソンがモスクワに帰任する時、個人的な友好関係を構築する為の会談を希望するとの親書をソ連側に持参したのである。
1961年6月3日、オーストリアのウイーンで両者ははじめて接触した。いわゆる米ソ頂上会談である。会談に備えてケネディは執務時間の空いた時間も、フルシチョフが過去に行った会話の記録を調べ、彼に会った事のある人々に会い、政策だけでなく彼の個人的な言動も調べ、会談の席上出て来そうなあらゆる問題の意味と背景を徹底的に調べ上げたのである。会談では二人とも相手に負けなかったが、礼儀正しかった。おおざっぱに言うと、ケネディが話題を出し、それを具体的な話にし、会話が横道にそれると本筋に戻しフルシチョフの返事を促すなど、ケネディのイニシアティブによって進められた。フルシチョフは長々と喋り、ケネディは正確に喋った。フルシチョフの話のほうが色彩に富み生き生きしていたが、二人とも時折歴史を引き、引用文を口にした。意見が合わなかったにもかかわらず、この会談で二人の間に奇妙な睦まじさといったものが生まれ、それがのちのちも二人が話し合いを続けてゆくのに役だった。しかし、結果的にこの会談は、ケネディにとってもフルシチョフにとっても、勝利でも敗北でもなかった。双方とも認めるであろうが、会談は平和への転機にはなり得なかったのである。
この会談で討議された実質的な問題点は三つあった。ラオス問題・核実験停止・ベルリン問題である。
ラオス問題に関してはケネディは執拗であった、フルシチョフは最後には、ラオスが米ソ双方にとって戦争に値しないことに同意し、双方が受け入れられるような政府を作り、休戦を監視することに実質的な同意を見せ、ささやかながら、予期せぬ収穫となった。しかし核実験停止問題とベルリン問題に関しては双方の主張を繰り返す事に終始し結局何の進展も収穫も無く終わったのである。

フルシチョフとの往復書簡

ケネディはウイーン会談のテレビ報告演説で「二人の見解は鋭く対立したが、少なくとも最後に双方は相手の立場をよりよく知った。少なくとも連絡の道はより完全に開かれ、その決定に平和がかかっている二人は接触を続けることに合意した」と語っている。
しかし二人は再び親しく会う事はなかった。1961年9月、緊張が高まり、ベオグラードで開かれた中立国首脳会議が米ソ首脳会議の必要性を呼びかけると、フルシチョフは再び会談したいと公言した。以後二年間、特に62年のアメリカの核実験再開前と63年の核実験停止条約調印後にフルシチョフは会談を呼びかけ、マクミラン首相も、核保有国の首脳会談を開くようケネディに圧力をかけ続けた。しかしケネディはことごとくこれらの要請を断っている。ケネディは長年の持論として、首脳会議は戦争の脅威が差し迫ったときには必要かもしれなし、低いレベルで話し合いがついたことを正式に承認する機会としては有益かもしれないが、こまごまとしたことを交渉する場所ではないという考え方であった。このように両首脳は再び会うことはなかったが、個人的な接触は活発に続けられていた。フルシチョフとケネディの個人的な手紙のやりとりである。現在では周知の事実であるが、当時この二人が私的な手紙の交換を行っていた事は両国政府の極めて限られた人物しか知らされていなかった。当時この度重なる書簡のやり取りは通常の外交ルートでは行われていなかった、ある時はフルシチョフの書簡を新聞紙に丸めて路上で手渡すといったまるでスパイ小説もどきの方法で渡されていたのである。1961年9月29日にフルシチョフからの手紙に始まったこの二人の手紙のやりとりはケネディの死の直前までずっと続けられていたという。しかし、現在もなおこの手紙の内容に関しては一切公開されていない。勿論、通常の公式書簡、外交文書も交換されたが両首脳はこの文通にによってお互いをより正確に判断できるようになった。フルシチョフはサリンジャーになどに、意見の相違はあるがケネディを個人的に好きだ、健全な尊敬心を持つようにもなったと語った。別の筋の話によると、フルシチョフはまたカストロに「君もケネディなら話ができるはずだ」と語ったと言われる。彼はケネディのデマゴーグ性のない態度を高く評価し、キューバミサイル危機の際には、敵対しつつ双方を十分に理解するといった構図を作り出し、ついには全人類を核戦争の危機から救ったのである。
他方ケネディは、一般的に見られているようにフルシチョフを、粗野な道化者とか好々爺とは絶対に考えなかった。ソ連首相を、利口でタフで鋭い相手と考えていた。「国家的劣等観念のせいでときどき必要以上にタフになる」とフルシチョフを評価したこともあった。しかし核の時代にあって二人が慎重に行動しなければならないことをフルシチョフは充分自覚しているとケネディは信じていたのである。

西側指導者に与えた印象

61年はじめケネディはフルシチョフだけでなく大西洋同盟の主なパートナーとも個人的接触をとりはじめていた。ケネディが最初に会い、もっとも好感をもち、もっとも頻繁に会った西側指導者はマクミラン英首相であった。二人はなにからなにまで一致したわけではなかった。マクミランは、ケネディよりも東西首脳会談に熱心で、ベルリンの戦争準備には不熱心であった。マクミランは常に東西間の平和調停役を務めたがっていたのである。しかし、親子ほどの年令の違いと意見の隔たりがあっても、二人は立派に協力していった。ケネディもマクミランを最もたよりになる同盟国指導者と見ていた。さらにイギリスの駐米大使デビット・オームズビーゴアが二人の意見の調整役として存在していた。オームズビーゴアはマクミランとは旧知の間柄であり、そしてケネディの亡妹キャスリーン・ケネディの夫であったウイリアム・キャベンディシュの従兄弟にあたり、ケネディとは年来の友人でもあったのである。ケネディは自分のスタッフに対すると同じように彼と相談し、彼に打ち明けていた。「内閣を信頼しているのと同じに、デビットを信頼しているよ。」と大統領は言ったものである。
ケネディが最も頻繁に接触したもう一人の西側指導者は、85歳になるアデナウワー西独首相であった。ダレスはアデナウワーを、ヨーロッパにおける最高の相談相手としていたが、ケネディはこのダレス政策を変更していたのであるがその事はアデナウワーも十分承知していた。フルシチョフと交渉するかどうか、ドゴールにどれだけ密着していくのかについて、二人の意見はわかれ、その違いは重大であり、解決されなかった。年令の違いはどうにもならなかったのである。大統領は「違う年代と話しているだけでなく、違う時代、違う世界と話しているような気がする」と側近に話ている。ケネディは、アデナウワーを喜ばせるのも、ちょっと動かすのも難しく、彼の政府に秘密を守らせることもむずかしい事を知った。老首相はアメリカから、愛と尊敬の言葉を繰り返し受ける事をたえず望んでいた。それにもかかわらずケネディはアデナイワーに対して心から好感を持ち、深く尊敬していた。アデナウワーはケネディを完全に信頼してはいなかったようだが、61年のベルリン危機と62年のキューバ危機で彼が断固たる立場を取った事に対して敬意を払っていた。
ドゴールとケネディは61年のパリ会談で一回会っただけである。その時うまがあったことに、他人だけでなく二人も驚いていた。ケネディはドゴールが歴史に果たした役割、今後の歴史に重点をおいていることに感動していた。のちに、アメリカの駐仏大使ギャビンが「ぼくはドゴールから、アメリカは欧州から手を引き、必要なときにだけ力を貸せと筋の通らぬことを冷厳に言われたときには。飛び上がるほどビックリした」とよく述懐したが、ケネディは驚かなかった。彼は会談前にドゴールの回想録でそのことを読み取り、会談で直接彼の口から聞いた。しかしケネディは「これほどなごやかな会談もなく、彼ほど信頼できる人物もいないことを知った、ドゴール将軍は見かけの合意よりも率直に立場を述べることに興味を持ち、将来にたいする賢明な相談相手である」と言った。ドゴール将軍が過去に愛着をもつ19世紀的ロマンティストに過ぎないという、大方の考え方には賛成しなかった。しかしドゴールがいらいらしており、非妥協的で、がまんできないほど虚栄心が強く、辻褄があわず、喜ばせることは不可能だという意見には賛成した。ケネディはドゴールの政策や立場が矛盾している事を、皮肉の目でみていた。たとえば、将軍はすでにフランスの力が無力になった東南アジアでは中立を唱えるが、まだ力のあるアフリカにおいてはそんなことはしない。共産主義にたいして同盟国は強く抵抗せよと言いながら、自分ではその抵抗を弱めるような分列行動をやめない。北大西洋同盟が軍事的にフランスを守ってくれているので、政治的に同盟を分裂させても平気でいる等である。ケネディは私的に「彼はオーデルナイセ線についてソ連側の立場を認め、東独と盛んに貿易し、ドイツの分割を認めながら、しかもフランスがアメリカよりも親西独で反共的だと西ドイツ政府に思い込ませているのだからねえ」と焦燥感からと言うよりも感嘆して言ったものである。ドゴールは核停条約にも参加せず、国連分担金も払わず、軍縮会議への参加も拒否した。「プライドと独立の問題として、将軍は対米関係を親密なものにするよりも緊張させたいようにみられる」ともケネディは言っている。このように対立があるにもかかわらず、二人は尊敬し会っていた。ドゴールは平然として核の責任を果たしにいく若きアメリカ大統領の”本質”に深く感動したとも伝えられている。パリ会談の後ドゴールは「私はお国に対する信頼感をますます深くした」とケネディにあいさつした。この言葉は誇張ではないが、ほんのチョットだけほめただけなのだそうである。同行した老練のアメリカ外交官が説明してくれた。その老外交官はドゴールがルーズベルト・トルーマン・アイゼンハワーにどの様な態度で接していたのかを知っていたのである。
このように老獪な世界の指導者に向かって若き大統領は積極的に接触している。ケネディが主として関心をもったことは、具体的な共産側の脅威にたいして西側の団結を維持しなければならないということであった。ベトナム・コンゴ・キプロスなど二次的な問題で同盟国が団結することを期待はしていなかった。しかしソ連と大きく対決するにあたっての西側同盟国の結束と団結を最も重要視していたのである。