ヴェトコンの攻勢


ジェム政権樹立八周年を迎えて南ヴェトナム政府が刊行した報告によれば、ヴェトコンのテロ活動による死者は、1961年8月の287人が9月には489人に、誘拐された者は213人が434人にと、倍増かそれ以上の勢いであった。9月を迎えるやベトコンは、一時的ながら政府軍の拠点のいくつかを占領した。とくに西部国境近くや中部高原などでは、軽機関銃や自動小銃、装甲車までも駆使して、組織だった作戦を展開していた。どうやら彼らは南ヴェトナム奪取の五段階作戦のうち、すでに第四段階、つまり「あらゆる戦線でゲリラ活動を拡大し、加えて正規軍による通常戦争型の攻撃をベトナム国軍に対して行う」段階に入ったようであった。ヴェトコンは組織や装備を改善し、活動の規模を拡大していた。おそらく1961年秋、南ヴェトナム全土制圧に向けてあらゆる形の破壌活動を広範囲で増大させ、決戦に出るに違いない。南ヴェトナムのジェム大統領も9月を迎えた頃、ハノイが「ゲリラ戦争は終わり、公然たる戦争を始めるべき時期がきたと判断している」ことを確信していた。
民兵の民問防衛隊や自警団を含めれば、南ヴェトナム政府軍はヴェトコンとの兵力比でほぼ18対1と、圧倒的優位にあった。しかも政府から出される数字を信じれば、敵につねに自軍のほぼ二倍の損害を与えているはずである。夏の問にはメコンデルタなどでいくつもの勝利を記録し、9月初めには500人から1500人のヴェトコン正規軍を相手に、堂々と渡り合ったこともある。しかしそれはじつのところ、時問をたっぶりかけて準備し、数的優位を確保したうえで、不意うちに成功するという、きわめてまれな場合にすぎなかった。米軍事援助顧問団を率い、過去の成果を強調してやまないマクガー将軍ですら、「いま全面対決が生じた場合、ベトコンに勝てる可能性がどれほどか、正確に評価するのは不可能」だと認めている。9月中旬になると、アメリカ製の手榴弾や機関銃、装甲車などを持つゲリラが全土で活発に動き始めた。ベトコンの戦略や戦術は大きく変化した、とCIAは見ていた。たとえば北出身者の割合がいちだんと増えたし、ますます重火器を使うようになった。妊婦や子供を殺害するなど、テロ行為に残虐さが加わった。ノルティング米大使によれば、テロの犠牲者が案山子のように木に吊るされたり、省長(知事)が家族の目の前で斬首されたりしたという。

襲われた省都


9月17日から18日にかけて、南ヴェトナム中部高原の都市バンメトートから東南約30キロに位置する土地開発センターが、ヴェトコンに占領された。政府軍の空挺部隊が奪回に成功するより前にヴェトコンは姿を消し、行きがけの駄賃とばかり周辺の多くの物資を奪い、学校や役所などを炎上させた。サイゴン政府は威信の失墜を恐れ、内外でこの事件の報道を抑えようと大わらわであった。時を同じくしてサイゴンからわずか90キロ足らずのフォクタソ省の省都が襲われた。ヴェトコンは省長やその側近を「人民に対する罪」のかどで処刑、捕虜となっていたゲリラ200人を解放し、政府軍到着の前に逃げ去った。政府はたいした打撃ではないと強がったが、二年前にジェムの肝煎りで建設された省都での敗北は、この独裁者の面子を粉々にした。ノルティング米大使は、ゲリラ戦争の潮流がまだ変わっていないと述べ、ヴェトコソの攻勢はさらにサイゴン周辺を中心に活発になると予想した。ジェムはヴェトコンが、首都サイゴンと、かつての王朝の首都でジェムの出身地でもあるフエ(ユエ)を分断する日も近いと警戒を強めた。9月も末近くになると、ヴェトコンは政府軍をうわまわる素早さで戦闘能力を向上させ、ロケット発射機や無反動銃、地雷までも使い始めた。それまで月平均150回だった攻撃回数は、9月には450回に増えた。ラオスに隣接する地域での兵力も増えた。南ベトナム中部はますます激しい戦場となった。9月28日、いまこそ南ヴェトナムという重病人の「腕に注射」が必要だと、ノルテイング米大使はワシントンに強く訴えた。ワシントンでもサイゴンでも急速に危機感が高まっていたと、国家安全保障担当大統領特別補佐官代理ロストウはいう。
ジュネーブでは、ソ連のゲオルギ・プーシキン代表(外相代理)が、南ヴェトナムの問題は、つまるところ「不人気なジェム政権に対する国民の蜂起」だと断定し、ジェムは1960年4月に権力の座を追われた韓国の李承晩と同じ運命をたどるだろう、と予言した。ハリマン米代表は、ジェムの改革を阻んでいるのは「ゲリラによる村落の生活への干渉」だと応じ、ラオス情勢が南ヴェトナムの命運のカギだと譲らない。しかし、ハリマンがどう反論しようと、南ヴェトナムの軍事情勢が好転しない限り、たいして意味はなかった。


洪水を好機に


ノルティング米大使は9月末、ジェム政府は国民の問での立場をいっこうに改善できず、国民を統一することもできないでいる、と報告した。ボウルズ国務次官は10月5日、どうやら南ヴェトナム政府には「効果的な政治基盤が欠如しているようであり、共産主義者は急速に軍事的圧迫を強め、その成功の見込みは確実という立場にある」とラスク長官に伝えた。同じ日、フランク・チャイルドは国家安全保障会議の一員カール・ケイセンに、南ヴェトナムが「12カ月ないし18カ月のうちに」ヴェトコンの手に落ちることは確実だと予見した。チャイルドはミシガン州立大学が1954年に南ヴェトナムに送った調査団の一員であった。アメリカ・ヴェトナム友好協会会長ウェズリー・フィッシェル教授をはじめ政治行政分野の専門家30人が、ジェム政府の行政組織づくりや北からの難民の受け入れなどを手掛けたのである。ケネディはあるとき、旧知の記者セオドア・ホワイトに、コンゴ内戦について語ったことがある。「どうやらこちら側には無能な政治家しかいないようだ」というケネディの言葉は、むしろヴェトナムのためにあるようなものであった。だから、ほんらい軍事分野を担当する軍事援助顧問団のライオネル・マクガー団長までも、南ヴェトナムの政治こそが、「解決しなければならない現在の最重要問題」だと確信するにいたったのである。たとえ軍事面でどれほど前進をとげても、政治面の改善がともなわない限り、十分な効果は期待できない。ところが肝心の南ヴェトナム国民は、四人に一人がヴェトコンを支持し、別の一人は日和見を決め込んでいたという。地方でのヴェトコンの躍進は農村の購買力を低下させていた。人口が大量に流入すれば、都市も窒息する恐れがあった。次のコメ収穫期を狙って共産側が大攻勢に出るという情報も寄せられていた。九月末にモンスーンが引き起こした大洪水も、ジェムの敵にまわった。南ベトナム政府が翌1962年7月に発表した報告によれば、洪水による死者は284人、被災者は32万人近くにのぼった。39万ヘクタールの耕地、38000の家屋、のべ957キロの道路、321の橋、30万トンのコメが被害にあい、損失の総額は30億ピアストルであった。ことにサイゴン西方のキエントゥオン省では耕地はほぼ全滅し、キエンフォソ、アンジアン両省でも三割から五割が失われた。周辺のキエンジアン、ビンロン、ディントゥ才ン、ロンアン各省も甚大な被害を受けた。同じ時期、南ヴェトナムの北部に位置するクアンチ、トゥアティエン、クアンナム、クアソガイ各省も洪水に見舞われた。水が引き始めてもなお50万人が飢えに苦しんでおり、10月下旬に潮位が最高に達することからも予断は許されなかった。
ジェム大統領は閣僚とともにさっそく被災地域を視察した。しかしアメリカの期待とは裏腹に、政府の動きは鈍かった。面目失墜を恐れるあまり、被害の実態についての発表もほとんどなかった。ここで時問を空費すれば、「大きな心理的勝利をおさめる機会が失われる」とボール経済担当国務次官は懸念した。彼はサイゴンのノルティング大使に、友好国に緊急援助を要請する、全国に復興を坪びかける、救援のため政府や軍を総動員する、などの措置をジェムに急がせるよう指示した。メコンデルタの被災地域は、南ヴェトナムのコメの90バーセントを生産する穀倉地帯だが、人口が分散し、交通網も通信網も貧弱で、政府とのつながりも弱く、これまでゲリラの活動拠点になっていた。一年の半分は水浸しで、ゲリラは小さなボートでどこにでも移動でき、どこにでもそれを隠すことができた。デルタの小作農や都市労働者たちは共産勢力の強力な支持基盤であり、実際に1960年ジェムに対する反乱の火の手があがった場所でもあった。だからこそ、ノルティング米大使は、アメリカが「ヴェトナム政府と手を携えて、目的と行動の一致を示す好機」として、この大洪水を歓迎していた。ラスク国務長官もサイゴンの米大使館に、被災地域救援とヴェトコン支配地域奪回をめざす計画を、ヴェトナム側と協同で作成するよう命じた。「ヴェトナム政府が洪水を禍い転じて福となすことも可能」と思われた。要は洪水がつくりだした政治的、軍事的真空を素早く埋めることである。

近づくルビコン川


ウォルター・マコノーイ極東担当国務次官補が述べたように、ワシントンでは、「ヴェトナムで差し迫っている危険」を念頭に、大統領の早急な決断を求める声が急速に高まっていた。マクガー軍事援助顧問団長もサイゴンから、「共産側が時問表を繰り上げる可能性」を指摘し、行動を急ぐよう国務省を説得しなければならないと訴えた。レムニツァー統合参謀本部議長は10月5日、マクナマラ国防長官に、東南アジアで大々的な演習を行ってはどうかと提案した。それは南ヴェトナム蹂躙をけっして許さないという、「アメリカの意図、決意、能力の証拠を北ヴェトナムに示す」ためであった。10月11日には国家安全保障会議が予定されていた。ウイリアム・バンディ国防次官補はこの会議が「明らかに最大級の重要性をもつ可能性がある」と考えていた。彼は、アメリカが迅速に、積極的な作戦に出れば、成功の確率は70パーセントはあると踏んでいた。逆にいえば、アメリカが「1954年のフランスのように尻尾を巻く」可能性、そして「この種の戦争には白人は勝てない」と認めざるをえなくなる可能性も、30バーセントは残されていたことになる。それでも、現実の行動までに時問を空費すれば、短期的な心理的効果も、長期的な可能性も含めて、成功の確率はさらに低化するだろうと彼は考えた。したがって、彼がマクナマラ国防長官にあてた勧告の主旨は、「ヴェトコンが生みだしつつある有利な状況を阻むには、まさにこの時をおいてはない」ということであった。ヴェトコンの運動がいったん「開花」すれば、その勢いは止めようがないからである。まんいち北ヴェトナムが介入すれば、これに対処するには12個師団(約22万人)が、中国が介入すればじつに15個師団(約27万8000人)もの兵力が必要だと見積もられた。しかも、北ヴェトナムや中国が大規模に介入するかどうか、正確に判断することじたい非常にむずかしかった。CIAは、SEATOが介入しても、北ヴェトナムや中国との直接対決をもたらす可能性は少ないと見ていた。ハノイであれ、北京、モスクワであれ、共産陣営が戦闘の拡大を嫌悪し、米軍による介入がもたらす危険の増大を懸念していることは「ほぼ確実」だったからである。側面から民族解放戦争を支援するという、危険の限られた戦術を続けるほうが、今後も東南アジアで共産側に成功をもたらす可能性が大きかったからでもある。

ジャングルジム部隊の派遣

10月11日朝、国家安全保障会議はいくっかの重要な於定を行った。北ヴェトナムの侵略を明らかにする白書を国務省が準備する。国際監視委員会や国連にこの問題を持ちだす。ラ才ス中部と南部の境の地域で共産側が行っている空輸に対抗し、必要なら米軍事顧問が参加してこちら側もゲリラ戦を開始する。さらに、米空軍のジャングルジム部隊を派遣して、南ヴェトナム空軍の訓練にあたらせる、などであった。
ジャングルジムとは、戦闘要員訓練のためこの年4月、米空軍内に設けられた部隊で、C47輸送機、B26爆撃機、T28戦闘爆撃機(第二次大戦中に使われた練習機に機関銃とロケット弾を塔載)などのプロペラ機を擁していた。南ヴェトナム政府の要請を受けて、米国務省が10月初めに派遣の是非を検討するよう提案していたのである。ヴェトナム人バイロットの短期養成や上空からの写真撮影などは「きわめて望ましい」と、ノルティング米大使も歓迎した。部隊は作戦行動にも戦闘にも参加しないが、「いずれ容易に戦闘用に転換可能」な戦力であった。すでに10月初めには、レーダーなどが南ベトナムに導入され、空中管制警戒部隊も南ヴェトナム空軍の訓練を始めていた。12機の航空機と約100名の要員からなるジャングルジム部隊(南ヴェトナムではファームゲート部隊と呼ばれた)は、10月12日、サイゴンに向け出発した。サイゴン北方30キロあまりのビェンホアで本格訓練を開始したのは11月16日のことである。名目上はアメリカ人パイロットは訓練教官に過ぎず、攻撃目標の選定も銃爆撃も、ヴェトナム人が行うはずであった。しかし操縦の知識もなく英語も話せないベトナム人は、操縦桿も引き金もない後部座席におさまっていた。手当ほしさに米軍基地のヴェトナム人コックが同乗したことさえあったという。ケネディは10月3日、タイのタナット外相に「軍事行動はうまくいっても結果がはっきりせず、危険だ」と述べている。すでに三度もピュリツァー賞を受けた有名記者で旧知の仲のアーサー・クロックにも、ケネデイは、ゲリラによる内戦にはアメリカは介入できない、と漏らしていた。ハリマンもジュネーブから、米軍には士気を強めるという効果は期待されるものの、「植民地支配からようやく抜けだしたばかりの国では、政治的に好ましくない反応を引き起こす」だろうと警告した。翌年には統合参謀本部議長となるテイラー将軍は、「大統領は非公式の協議で、ヴェトナム側が必要な軍事力を供給でき、米地上部隊を戦闘に投入せずにすむよう切望していることを、余すところなく明白にしていた」と、のちに述懐している。彼は、「われわれは、ヴェトナム人自身ができることをアメリカ人が代わりにやってはならない、という点で大統領と完全に一致」していた、とも述べている。10月21日、ラスクはデイピッド・ベル予算局長に電話で、「もしできることなら、人員でなく物資の投入を行いたい」と語っている。しかしケネディの内心にどれほど躊躇があったにしても、ジャングルジム部隊の派遣、その実際の運用を見る限り、事態はまったく逆の方向に、アメリカがみずから戦いのなかに身を置く日に向かって、着実に動き始めていた。