第一章 王朝の鼓動

1947年の夏、南アイルランドの片田舎、ニューロスの街はずれにある一軒の鄙びた草葺きの農家にチャーチル、イーデンといったイギリス政界の大物やその家族が集まっていた。このパーティのホストをジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(愛称・ジャック、以降ジャックと表記した場合は大統領の事をさす)と言った。彼はつい最近アメリカ合衆国下院議員に当選したばかりの新人政治家であったが彼は並み居る政界の大物を前に、臆する事なく自分の先祖の話をはじめた・・・「私の祖先は、この界隈の馬鈴薯作りの水飲み百姓の一人であったのです。・・・・・・・・・・・・・・・

時間は百五十年ちょっと溯ることとなる。
アイルランド伝統の作物は大麦であるが、これらは当時、ウイスキー、ビールの原料としてイギリスに搾取されていたため、アイルランドの農民は馬鈴薯を作り、ポテトをかじって糊口をしのいでいた。この、生きる為の最低限の作物であった馬鈴薯を全滅させるような恐ろしい疫病が発生したのは1800年代の初期の事である、この惨禍に続いてチフスが蔓延して農民たちはバタバタと倒れていった。アイルランド農民のアメリカ大陸への大脱出の始まりである。この大量のアイルランド脱出難民のなかに一人の農民が身を投じた。彼は、ただのありきたりの水飲み百姓で、家にあったすべての家財や農機具を売り払い、やっとの思いで大西洋航路のキューナード汽船の三等船室の切符を手に入れた。その人物の名は パトリック・ケネディ。 ジャックの曾祖父にあたる人物である。まさに命からがらボストン郊外のノッドル島に到着した難民たちはノッドル島桟橋の倉庫の地下に住みつき出したが、こことても彼らの安住の地ではなかった。コレラ、結核、天然痘などありとあらゆる疫病の巣と化した桟橋一帯では、難民たちが次々と死んでいったのである。こんな中、パトリック・ケネディは生き残る事ができた、そして彼は桶樽屋の仕事口を見つけ、貧しくとも地下室の地獄からは這い出す事ができたのである。同じアイリッシュ難民の娘、ブリジット・マーフィーと結婚、三人の娘と二人の息子(一人は早逝)を設ける事ができるまでになっていた。そんなパトリックは、作った桶樽をバー、サロンに納めているうちに桶樽を作るよりも酒場のほうが儲かる事を知って桶樽屋をやめてサロンを経営する事を夢見ていた。しかし1858年 夢を果たす事なく死んだ。残された一人息子 パトリック・ジョセフ・ケネディ Jr(写真左)は亡父の意志をついで小さな酒場を手に入れると、これを繁栄させる事に成功する。やがて政治に興味を抱くようになったパトリックはマサチューセッツ州の下院議員に出馬を考えるまでになる。この時点で、すでにケネディ家はアイリッシュ難民の中では、かなり成功した部類になっていたのである。ボストンで二つのサロンと石炭屋を経営するようになっていたパトリック・ジョセフ・ケネディ は1887年11月に同じ酒場経営者の娘メアリー・オーガスタ・ヒッキーと結婚。翌年一人の男の子を産む。パトリックはこの一人息子をジョセフ・パトリック・ケネディと名付ける。暮らしもある程度豊かになり、ボストン政界でもかなり名を売り出していた頃にあたりジョセフは教区学校へ通う事ができるまでになっていた。家庭は裕福であったが、彼は新聞配達をやりキャンディ売りをやって小遣い銭を稼いだ。長じてベンジャミン・フランクリンやヘンリー・アダムスなどが学んだ有名な”ボストン・ラテン”に入学する。スポーツ万能の彼は「市長杯」を獲得するほどの人気者で、ボストン上流社会の住むバック・ベイやウエスト・エンドの子女を級友に持つまでになった。しかし、クラス仲間は彼が人気者になればなるほど、こう言って陰口をささやいていた。「えらそうに言っても、あいつはアイリッシュだぞ。」と・・・
1908年、名門ハーバード大学に入って経済学を専攻したが、バスケットボール選手としても活躍した。ジョセフが学位をとって卒業した時、彼は5千ドルの預金通帳を握っていたと言われる。夏休みに、観光バスガイドをやって稼いだ金であった。「35歳になるまでに、俺は百万ドルを貯めてみせる。」これがジョセフの堅い決意であった。東ボストンのアイリッシュ移民の子孫は「少数民族」であったので、守銭奴になっても、金でヤンキーを屈服させてやろうと考えたのだ、州の銀行審査官の試験に合格し、州政府に就職した彼はマサチューセッツ州の銀行支店をくまなく歩き回った。年報は千五百ドル。そんな時、父パトリックが重役として名を連ねていた「コロンビア・トラスト」と言う小さな信託銀行が倒産に瀕し、中流銀行の「ファースト・ワード・ナショナル」に吸収合併される、という情報をつかんだ時であった。ジョセフは親戚・友人から四万五千ドルの大金を借りる事に成功、潰れそうなコロンビア・トラストの株を買い集めて筆頭株主となり、吸収合併されたと同時に、合併した側のファースト・ワード銀行の頭取に推薦されたのである。若干二十五歳。全米最若年の銀行頭取の誕生であった。
話を少し戻そう。ジョセフの父パトリックが下院議員への立候補を考えていた頃、東ボストンには、やはり、アイリッシュ難民の倅で、ジョン・フィッツジェラルドと言う立志伝中の人物がいた。ボストンのアイリッシュ移民社会に君臨するゴッドファーザー格の男でボストン市長にまで上り詰めた人物である。ジョン・フィッツジェラルドは、ボストンの移民社会では「ハニー・フィッツ」と呼ばれアイリッシュ全体の信望を集めていた。余談ではあるが、ケネディ大統領の専用ヨット「ハニー・フィッツ号」ほここから名前をとっている。この人物とパトリック・ジョセフ・ケネディはアイリッシュ同盟とも呼べる提携を結んだ。少数民族であるアイリッシュのヤンキーに対する挑戦であった。フィッツジェラルドは「アイリッシュ・スイッチ」のできる政治家と呼ばれていた。左手で一人の友人を抱き、右手で、その友人の敵とも握手ができるという超現実主義を貫いていた。そんな彼がアイリッシュ同盟を結んで狙ったのが、マサチューセッツ州知事の座であった。しかしこれには失敗した。アイリッシュ移民が勢力を増しだしたボストンでは票を集めたが、郊外や全州規模では、いかんせんヤンキーには勝てなかったのである。この時のフィッツジェラルドの対戦相手こそが、ヘンリー・キャボット・ロッジである。ロッジ家対ケネディ家・フィッツジェラルド家同盟の宿命の対決の始まりであった。
共和党員のヘンリー・キャボット・ロッジは、ボストン交響楽団のオーナーと言う名門中の名門で、マサチューセッツ州の正統派を誇るヤンキーたちの代表的家系であった。当時、ボストンのアイリッシュは固まって地域社会を構成していた、特にカトリック系のアイリッシュはその傾向が強かった。類をもって集まり、壁を築いて同族を守り合うと言った点では、ニューヨークのイタリア系社会やユダヤ系社会と同じで、正統派を自認するヤンキー社会からは白眼視され、自らも差別社会を意識してヤンキーを敵視した。敵視したがゆえにまた一段と強く白眼視されると言った差別感の悪循環に陥っていたのである。ヤンキー代表ロッジ家とアイリッシュ代表のフィッツジェラルド家・ケネディ家同盟の政治的敵対関係はこの時代からの怨念であった。フィッツジェラルド対ロッジに始まった対決は、その子供同士の対決に繰り返されてていく。ヘンリー・キャボット・ロッジ Jr はジャックとマサチューセッツ州上院議員選挙で対決、さらにジャックが大統領選挙に出馬した1960年の選挙における対戦相手ニクソンの副大統領候補は、当時国連大使であったこのロッジ Jr である。さらにはロッジ Jr の息子ヘンリー・ロッジ三世はエドワード・ケネディと上院議員の座を争っている。
んなヤンキー社会との対立が深まっていた1914年10月7日、ジョセフ・ケネディはジョン・フィッツジェラルドの娘 ローズと結婚する事となる。ジョセフ26歳、ローズ24歳であった。状況からみると両家の政治的結婚のように見えるが実際は父フィッツジェラルドはこの結婚には大反対でローズの記録によると、ジョセフと父の関係はかなりの期間まずい関係が続いたと記されている。
最年少頭取の地位に甘んじる事のなかったジョセフは義父フィッツジェラルドのコネでコラテラル・ローンと言う一流金融会社の重役となりさらに巨大鉄鋼コンツエルン「ベツレヘム」傘下のベツレヘム造船の副支配人になる。この頃ジョセフは、仕事の関係でウイルソン政権下、海軍次官に大抜擢されたフランクリン・ルーズベルトと知り合う事となる。このころ父パトリックの本業である酒場の経営は「禁酒法」の為に開店休業の状態であったが、ジョセフは連邦政府にコネをつけて”医薬用アルコール”の輸入許可権を手にいれている。彼は「ソマーセット商会」と言う会社を設立して”薬用アルコール”の輸入許可権を手にいれ、ヨーロッパ各地から”薬用アルコール”として大量のウイスキーやジンを輸入している。その業績は禁酒法時代”薬用アルコール”の正規の輸入実績だけでも十一万八千ドルに達したと記録されている。この時 ソマーセットの重役に迎えられたのがルーズベルトの長男ジェイムズ・ルーズベルトである。このコネクションが、後にジョセフがフランクリン・ルーズベルト政権の駐英大使と言う大抜擢を受けた時の伏線となっていると指摘する声もある。後日談になるが、ジョセフはパートナーを持たないことを鉄則としていた為、このジェイムズは利用価値がなくなったと判断された時、まさに弊履のごとく捨てられた。この時の恨みを持ったエリノア・ルーズベルト夫人がジョンが大統領に立候補を表明した時、民主党内でまっさきに反対ののろしを上げたと言われている。ジョセフは息子ジョンが政界に出馬した1946年、醜聞を恐れてソマーセット商会を譲渡している。この時の年商は四百五十万ドルに膨らむまさに金の成る樹であったが、売却時に重役の最高幹部に支払われた退職金はわずか三万七千ドルであったと言う。後の1960年、あるパーティーの席上ジョセフからソマーセット商会を買い取った男のスピーチを聞いたジャックは、「親父とビジネスをやった人間から、こんな温かい言葉を聞こうとは思わなかった。」と感激したと言う。当時、ジョセフ・ケネディは「世界で最も富裕な密醸者」と呼ばれた。さらにジョセフの飽くなき金銭欲は石油事業、映画産業、不動産業にも進出。まさに巨万の富を築いたのである。
有名な話がある。1915年、長男ジョセフ Jr が誕生した時、彼は子供たちのための「百万ドル基金」を設定した。これから生まれてくるケネディ家の子女は、一人百万ドルずつ基金が預金される。手つかずで放置されると、何十年後には利息がついて必ず一千万ドルになると言った構想である、そして現実に実行された。ジョセフの述懐が記録に残っている。
「この金には紐は絶対につけない。しかし、子供たちはこの百万ドル基金の重みを常に心に抱くことであろうから、長じて、金に幻惑されることはあるまい。子供が俺に唾をひっかけてもかまわぬような教育がしたい。子供が金持ちになろうが、怠惰なぼんくらになろうがそれは親の知ったことではない。子供を自由にしてやる!」
株成り金にしては、と言うより、禁酒法時代に「ウイスキーの密輸をやって儲けた」と罵られ「守銭奴」とさげすまれたがゆえの子女教育法であった。


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