これでよし、馬鹿がいなければ!



発表

キューバ封鎖宣言 1
キューバ封鎖宣言2

1962年10月22日キューバ封鎖が全世界に向け発表された。アメリカはもとより、世界がキューバで起きた人類の危機を初めて知った瞬間である。




宣言を読み上げるケネディは、ある時は切々と、ある時は断固たる意志を持って語り掛けた、日本のケネディ暗殺事件研究者の一人でありドキュメンタリー作家の落合信彦はその著書のなかでこう書いている。「私は当時留学中でその寄宿舎でクラスメートと共にこの放送を聞いた。その時周りの人たちは涙を流す人も居た、最後に放送が終わると、みんないっせいに立ちあがり、我々はケネディを支持する、共に戦おうと歓声を上げたのを強烈に覚えている。」と書いている。
ともかく、午後7時17分放送は終わった。演説を終えたケネディがふとつぶやいた言葉を、ソレンセンはよく覚えている。「よし、これでいい。馬鹿がドジをふまなければいいが。」と・・・・・
モスクワ時間23日未明、ケネディの演説をフルシチョフは緊急に招集した幹部会の席で聞いている。同席したフルシチョフの国際問題担当顧問オレグ・トロヤノスキーはその場の雰囲気を、全員固唾を飲んで聞き入った。演説の中に「侵攻」「空爆」の言葉が無く、皆「ほっと、胸をなで下ろし、まだ我々には考える時間があると、皆が思った。フルシチョフもそうだった。」フルシチョフの反応について、その息子、セルゲイ・フルシチョフは「封鎖を聞いて、父が怒ったと言う説がありますがそれは違います。父は実際には、封鎖ですんで良かったと安堵したのです。ただし、父はミサイルを撤去するつもりなど毛頭ありませんでした。むしろ、一刻も早く基地を完成させて、ミサイルを発射可能な状態にすることで、自分達の覚悟を示そうと思っていました。」
同日、フルシチョフは駐ソアメリカ大使コーラーに対し書簡を手渡した。内容は、穏やかな言葉の中に、今回の行動を激しく非難する内容であった。そしてソ連全軍に第二戦備態勢の態勢を司令した。これは、全面戦争一歩前の配備態勢である。

かくして、対決は始まった。

ケネディの演説によって、アメリカ市民に危機感が広まり、一部でパニックも報告された。各地で食料や衣料品の買いだめが起り、スーパーマーケットはたちまち空になった。防空壕を掘り、庭に穴を掘って自前の核シェルターを作る人まで出てきたと言われている。
一方、キューバ。キューバにとって、海上封鎖は宣戦布告も同様であった。キューバ政府は全島に最高警戒体制を発令。27万の兵士に動員令が下った。カストロは、ラジオ・テレビで演説し徹底抗戦と打倒アメリカを国民に呼びかけ。「祖国か、死か!我らに勝利を!」と悲壮な演説を繰り返した。まさにキューバは、燃えたのであった。キューバに派遣されたソ連軍は、本国からの具体的な指示も無く、燃えたぎるキューバの真っ只中に、核兵器を抱えたまま戦闘体制に突入したのであった。

カストロ演説放送