初期必読資料



このページの性格について

このホームページは、拙著ホームページ”ケネディ暗殺事件”の一コンテンツとして制作されたものです。ケネディ暗殺事件を広く再認識して頂く為に事件関連事象を紹介して行くに当たり、どうしても避けて通れない事件として”キューバ危機”があります。このコンテンツに挑戦するに当たって内容の重大さ、かつ、資料の膨大さにあらためて驚きました。そこで、”キューバ危機”としての単独のホームページの形式をとることにしました。全体の形式としては単独ホームページの形式をとりつつ、本来の趣旨であるケネディ暗殺事件の関連事象としてのキューバ危機の捕らえ方をしています。

キューバ危機の位置付け。

1962年のこの時を振り返って、この人類史上最大の危機を救ったのは、ケネディ米大統領フルシチョフソ連首相の冷静沈着な状況判断と、何にも増して強力なリダーシップによって回避された事になっています。しかし、現実は違いました、一本の誤報電話が危機を救いました。この誤報電話がなかったら全面核戦争に発展する可能性は否定できなかったのです。人類の理性を信じるならば全面核戦争への突入はないにしても、少なくとも、人類史上三番目の被爆地として、アメリカ南部のいずれかの都市もしくはキューバの名もない海岸が歴史に刻まれたであろうことは確実だったのです。時代は繰り返し、歴史の教える教訓は絶大なものがあります、われわれは今、冷戦終結と言うつかの間の平和の到来を謳歌しているやに見えます。しかし、世界中のいたるところに火種はくすぶり、いつ爆発してもおかしくない状況が多くあります、新たにインド・パキスタンが核の保有を宣言しその非核のタガはゆるみつつあります。今こそ、歴史に学びかつて核戦争の恐怖に慄いた時を思い起こす必要があるのではないでしょうか。

ケネディとキューバ危機

ケネディはキューバ危機において多くのことを学びました。反目は危機を生み、無理解は憎悪を生む事を。キューバ危機から半年後ケネディはアメリカン大学において歴史的な平和への戦略構想を発表しました、そして、この演説こそが、ケネディ暗殺計画最終ゴーサインを決定ずけた演説であると指摘する研究もあります。彼の演説の一説です「アメリカとその同盟国、およびソ連とその同盟国は共に、真の公正な平和の確立と軍拡の停止に、相互に大きな利害を持つているのである。この目的に対する協定は、アメリカばかりでなくソ連の利益にもなるであろう。そしてどんな敵対的な国家でも、こうした条約義務だけは受諾し遵守することを期待してよいだろう。だから、われわれは両国の相違点に盲目であるべきではないが、同時に両国共通の利益とこれらの相違点を解消することのできる方策に注意をむけようではないか。またこれらの相違点を今すぐなくすことはできないにしても、少なくともこの世界に多様性が安全に存在することができるであろう。」と。そして、アメリカの一方的な大気圏内核実験の停止を発表しました。このことは、アメリカ内部の超保守派層、軍産複合体にとって致命的 な圧力であり、共産主義への迎合と見られた事は明らかです。しかしケネディはこの演説で「憎悪と無理解を超えて共に生き続けよう。」と全世界に向けて言いたかっただけなのでしょう。






キューバ危機
1962年にソ連がキューバにミサイルを配備したことによってアメリカとソ連の間でおきた抗争事件。世界じゅうの人々はこの危機が米ソの核戦争につながることを懸念した。 1959年、キューバにカストロの革命政府が成立したが、アメリカはそれをみとめず、経済封鎖による孤立化をはかった。それに対し、キューバはソ連に接近、ソ連のフルシチョフ首相はキューバへの中距離ミサイルの配備計画をうちだした。これはアメリカ東部を射程内におくことを意味する。フルシチョフは実際の配備を否定していたが、前年4月にはアメリカの支援をうけた亡命キューバ人部隊がキューバに侵攻して撃退されており、さらに緊張が高まった。62年夏、アメリカの偵察機がキューバでのミサイル基地建設の写真撮影に成功。10月14日にはミサイルを確認して、アメリカはミサイルの脅威に直接さらされることが明らかになった。こうした事態に、アメリカ大統領ケネディは側近たちと秘密裡に協議をすすめ、キューバ侵攻、空爆、海上封鎖、外交交渉などさまざまな対応策を検討した。1962年10月22日、ケネディは海上封鎖を宣言して新たなミサイルの配備を阻止するとともに、ソ連がミサイルを解体、撤去することを要求した。そしてミサイルの搬出を確認するため、アメリカ海軍が航行する艦船を査察できる封鎖海域を設定する。米州機構加盟国はアメリカの一連の措置を支持した。緊張 が最高潮に達するなか、キューバへむかうソ連の艦船は数日間、封鎖海域に入ることをさけ、両首脳は外交ルートで交渉した。その結果、フルシチョフ首相は当初の立場を変更し、アメリカがキューバに侵攻しないことを条件に1962年10月28日ミサイルの解体、撤去に同意、国連による現地査察を提案した。大統領はこれを受け入れ、海上封鎖を解除した。フルシチョフの譲歩に激怒したキューバは現地査察を拒否したが、アメリカは偵察機でミサイル基地の撤去を確認した。ソ連がこの危機で譲歩したことによって、米ソは平和共存にむけて急速に接近したが、いっぽうでフルシチョフの弱腰は64年10月の解任の原因のひとつとなった。