時代背景
ミサイルギャップの虚構
1957年10月、一つの飛行物体が宇宙空間へと旅たった、人工衛星「スプートニク1号」である。この打ち上げの成功はアメリカにとって”第二の真珠湾”と呼ばれるほどの衝撃であった。人工衛星を打ち上げると言う事は、一般的に考えるように宇宙開発の手段ではない、学術的な効果はあくまでも副産物であり、真の目的は軍事的なものである。すなはちこの成功によってソ連のミサイル技術は世界最先端のものとなり、いついかなる場所へもミサイルを発射できる体制になり、大陸間弾道ミサイル・中距離弾道ミサイルの実戦化の完了と理解された。ここに1950年代末期の「ミサイルギャップ論争」が開始されたのである。アメリカは核ミサイル戦力・技術においてソ連に後れを取っているとする論争であり、アメリカの反共的気運と重なって全米に広まった。1958年アメリカ国防省は「ガイザー委員会」を発足させ対ソ戦略の研究を実施した。その中心メンバーの一人でありキューバ危機の時の国防次官ポール・ニッツは、対ソ核戦略の劣勢を挽回する為、モスクワを射程距離におく北大西洋条約機構参加国に、中距離ミサイルの配備
を提唱した。これによってアメリカは1959年末、イタリアに30基・トルコに15基の射程距離2400キロのジュピターミサイルを配備したのであった。この配備によってウラル山脈西側のソ連重要地域はすべてアメリカミサイルの射程距離内に収まってしまったのである。
翌1960年は大統領選挙の年であった、共和党は現職の副大統領ニクソン、野党民主党はケネディであった、ケネディはこのミサイルギャップを選挙戦の中心に置いた、アメリカの劣勢状況を生み出してしまった与党共和党の政策を真っ向から攻撃したのであった。有名なケネディ・ニクソンのテレビ討論の一節である。
ニクソン:あきらかにアメリカはソ連よりも豊かである。アメリカ国民には、よりテレビが普及している。
ケネディ:しかし、テレビの台数はミサイルの数ほど重要ではない。ミサイルの数において劣っていれば何にもならない。
ケネディの僅差の勝利はこのミサイル論争によって決定ずけられたともいわれている。
しかし、このミサイルギャップは完全な虚構であった、実際にはソ連に劣っているどころか、およそ200対1で優勢に立っていたのである。しかも1960年の時点でソ連には大陸間弾道ミサイルは存在せず、研究途上である事も明らかになったのである。ともあれ、ソ連にはアメリカ本土に届くミサイルは存在しなかった、トルコ・イタリアへのミサイル配備はまさに虚構の上に立った過大防衛でありソ連の被害者意識を逆なでする以外の効果はなかったのである。ソ連首相ニキータ・フルシチョフは黒海にのぞむクリミヤ半島ヤルタの別荘でこういったと言われる。「この対岸には、アメリカの核ミサイルがいつでも我々をねらっているのだ。我々も同じ事をしていけない理由があるのだろうか。」
カストロの革命
1959年1月、全米が対ソミサイル論争に明け暮れたいた時、カリブ海に浮かぶ島キューバに政変が起った、あえて政変と書いたのはこの時点での政変はイデオロギー的な政変ではなく、腐敗しきったバチスタ軍事独裁政権にたいする反抗の性格が強く、最初から反米帝国主義や社会主義革命・プロレタリアート革命を打ち出したものではなかったからである。
だが、「アメリカの裏庭」キューバは徐々に反米路線を歩み始める。カストロは前政権が生み出した社会の困窮状況を引き継ぐ形となり、主に農業を中心とする大規模な改革の必要に迫られていた。その為、当初はアメリカに向けて好意的な態度を示し、援助を取り付けようとした。59年の4月にはカストロ自ら訪米し、精力的に援助の必要を訴えた。しかし、時の大統領アイゼンハワーは、さしたる理由もなく彼との会見を拒んだ。アイゼンハワーは会見に副大統領のニクソンと国務長官ハーターをあてた。カストロはこれらの会談に失望した。大統領が自分に会おうともしなかった事を屈辱と感じ、反米感情を抱いて帰国したといわれている。
アメリカとの決別
カストロ訪米の2ヶ月後の1959年6月、キューバは国内のアメリカ資産の接収、9月にはキューバの唯一の産業であった砂糖の大量売却の相手にソ連を選び、翌1960年2月のアナスタス・ミコヤンソ連第一副首相のキューバ訪問と通商協定の締結と、急速にソ連に接近していった。
このようなキューバの動きに対してアメリカは何かをしなければならないという焦りを感じ始めていた。その結論としてアメリカが計画したのは友好ではなく侵攻であった。1960年1月アメリカ中央情報局(CIA)は米軍の援助・訓練による亡命キューバ人によるキューバ侵攻計画を大統領に提出、承認を得ている。(この侵攻部隊が1961年4月のコスチノス湾事件をひきおこすのである。)さらに、1960年10月には食料品を除く全面対キューバ輸出禁止の処置をとったのである。1960年12月19日、キューバはついにソ連との共同コミュニケを発表し、みずからは共産主義ブロックの一員であると、世界に向けて宣言したのであった。これに対し翌1961年1月アイゼンハワー最後のの月に、アメリカはキューバに対し国交断絶を宣言した。
生き残る為イデオロギーとは関係なくソ連を選択せざるをえなかったカストロとキューバ。東西冷戦に揺れる小国キューバの、この決断が2年後のキューバ危機のプロローグといえよう。
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