黄金の日曜日




時間との競争

フルシチョフは撤退を決意した。しかし、時間がない、ケネディが開戦の放送をしてしまった後では、もう遅いのである。ミサイル撤去の宣言は異例のスピードで行われた。通常の外交ルートに乗せての伝達では間に合わない事ははっきりしている。フルシチョフは通常のモスクワ放送の電波で宣言を流す事にした。フルシチョフは、ホワイトハウスが、モスクワ放送を聞いている事にすべてを賭けたのである。モスクワ時間28日午後5時、ワシントン時間28日午前9時、まさに、ケネディの開戦放送が始まるはずのその時間に、モスクワ放送は英語の放送を流し始めた。

モスクワ放送ミサイル撤去宣言放送

ケネディ大統領閣下
貴殿が示したバランス感覚と、世界平和維持の為にあなたが持つ責任を理解している事に、私は満足と感謝の意を表したい。貴殿が攻撃的だと主張する武器は本当に恐ろしい武器であり、この事実に関してあなたとアメリカ国民とが懸念を持っている事を私は十分に承知をしている。あなたがたもわれわれも、共にそれがどんな武器なのかを理解している。
平和を脅かす戦いをできる限り迅速に無くす為、平和を望む人々に確信を与える為、またソ連国民と同様に平和を望んでいると確信するアメリカ国民を安心させる為、ソ連政府はキューバにおける武器基地建設工事の中止命令を出した。さらに、貴殿が攻撃的だと考える武器を撤去しソ連に持ち帰るようにとも命令した。・・・・・・後略

危機は回避された。
ワシントンのソ連大使館でドブルイニンは静かにこの放送を聞いていた。「危機は終わった、と感じた。撤退に合意したのであるから、危機は終わったのだ。後は交渉だ。事態が秒単位で進行している時は、情報に飛びついたが、すべてが決まれば後は外交交渉の段階であるから落ち着いて物事を判断できる。交渉には困難が予想されるが、それが、私の仕事であり、いつもの事である。」と彼は思ったと言う。
ワシントンはまだ、完全には目覚めてはいなかった、この日1962年10月28日日曜日。後にこの日を人々は「黄金の日曜日」と呼ぶ事になる。

何でフルシチョフはこうしたのだと思う?

日曜日の朝のホワイトハウスは静寂に包まれていた。側近達の多くは自宅でこのニュースを聞いた。ある者は歓喜し、ある者はほっとため息を吐いた。表現の違いは有っても、安堵の気持ちには変わりはなかった。
国務次官ジョージ・ポールは、こう回想する。「危機が終わって最初に外に出た時の、ホワイトハウスの芝の緑の美しさを私は生涯忘れる事はないだろう。危機の後、私は10年余計に生きたと感じた。」
ケネディは、ミサイル発見の時と同様、バンディからこのニュースを聞いた。バンディはこう述懐する。フルシチョフのミサイル撤去発表の放送が流れた時、私は、ホワイトハウスの地下執務室にいた。私はこれで、危機が過ぎ去ったのだと思った。そして、そのニュースを大統領に伝えに行った。今度は、眠っていようがかまわない、たたき起こして知らせねばならない。もちろん、大統領は大変喜んだ、そして、最初にこういった。「何でフルシチョフはこうしたのだと思う?」と、大統領らしい反応だった、彼にユーモアが戻ったのだ。数日ぶりに聞くケネディのユーモアだった。」

誤報

ここに、ケネディ図書館が保存する、1962年10月28日の大統領行動予定表がある。この日の予定にはテレビ演説の予定はない。また、ケネディに限らず、アメリカ大統領が日曜日の朝教会に行くのは当たり前の習慣である。つまり、この日フルシチョフの別荘にもたらされた電話の情報は「誤報」であった、テレビ演説は、放送局が封鎖宣言の演説を再放送する予定が組まれていたと言う。
この幸運な誤報が、皮肉にも人類史上最大の危機を救ったのであった。