海上封鎖




封鎖決定

1962年10月19日、危機4日目。エクスコムは全体会議を開いた。この日ケネディは会議には出席していない。この日の朝、大統領から特命を受けたロバート・ケネディが口を開いた。
「私は今朝大統領に会った。大統領として、彼は空爆命令をそう簡単に出す事はできない。アメリカには奇襲の伝統はない、まず警告が必要だ。警告をしなければ、ソ連人にもキューバ人にも数千人単位の死傷者が出る。深入りしすぎているソ連に、キューバから手を引く時間をあたえてやってもいいだろう。」
これで決まりであった。ロバートの声は大統領自身がそこに居て、自身の考えを述べたかのように聞こえたと言う。全員が封鎖に傾いた。
翌20日、危機5日目。ケネディは予定を短縮してワシントンに戻った。ホワイトハウス報道官ピエール・サリンジャーは、「大統領は、軽い風邪に罹った。」と偽った。
午後2時30分、エクスコム会議。統合参謀本部の見解として、海上封鎖の場合、ソ連ならば核をつかうであろう。」と述べて、我が国も核攻撃の準備をしておくべきである、とのべた。ラスクは、国務省の見解として、封鎖案を支持した。司法省・国防省も同様な見解であると。各長官が発言した。リンドン・ジョンソンは大統領に見解を聞いた。大統領は「国務省、国防省からこれほど確かな提案を得たんだ。私も賛成だ。」と言った。
この瞬間、アメリカのとる道が決定した。

秘密

この時まで、すべての事は秘密裏におこなわれてきた。アメリカとしての路線が決定しないまま、ミサイル配備を公表してしまったら、市民の不安を掻き立て、ソ連をいたずらに刺激することになりかねないからである。だが、ケネディやその側近、主要省庁の慌ただしい動きは、当然記者たちの疑念を呼びはじめていた。10月20日深夜、突然、主要報道機関のジャーナリスト達がバンディに呼び出された。バンディは、キューバでの驚くべき事実、大統領の決断について説明した上で22日に予定された大統領の演説の時まで公にしないように、協力を要請した。ニューヨークタイムズ、ワシントン支局長ジェームズ・レストンは、バンディの説明にじっと耳を傾け、驚きながらも事の重大さを十分に理解した、そして大統領の意向に従う事を約束した。バンディによれば、これは政府と報道機関が国家の安全保障のために協力できることの好例であった。またそういう時代であった。

すべてが、封鎖にむけて動き出した。国際法上の問題点、実際に封鎖海域でソ連船と接触した場合の方法、また外交上の問題、アメリカの立場の説明、正に処理すべき事が山のようにあった。封鎖宣言の草案もできたが、一字一句の検討も専門官が取り組んだ。ドゴール仏大統領マクミラン英首相アデナウワー独首相・ファンファーニ伊首相あらゆる同盟国に密使がとんだり、各国駐在アメリカ大使が面会した。”その時”は目前に迫った。
10月22日、危機7日目、民主。共和両党の主要議員17名がホワイトハウスに集まった。最後の調整である、大統領は秘密を打ち明けた。おおむね封鎖案への賛同を得た大統領は、ラスク国務長官に命じた。「残るは、ソ連だけだ。」

10歳も老けた

22日午後6時、大統領のテレビ演説の一時間前。
ソヴィエト駐米大使ドブルイニンの姿がアメリカ国務省の建物に消えた。繰り返すが、この瞬間までドブルイニンはミサイル配備の事実を知らない、本国政府からも知らされていない。
国務長官ラスクは、彼に、アメリカがミサイルを発見した事を告げ、「ソ連のおおきな誤りである」と非難した。同時にケネディが読み上げることになっている演説の草稿のコピーを手渡し、海上封鎖を含むアメリカの強硬姿勢を告げた。ドブルイニンは、ただ一言「大変なことになりそうだな。」とつぶやいたという。ドブルイニンはこの時、緊張のあまり普段はファーストネームで呼び合う仲のラスクを、「貴官」と呼び、ブルブル震えていて、急に10歳も老けて見えたとラスクは回想している。


1962年10月22日東部標準時間午後7時・・・・・その時はきた。