リンドン・B・ジョンソン大統領は、1963年11月29日大統領令第11130号を発布した。すなわち「ジョン・F・ケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会」の発足に関する布告である。一般的にこの調査委員会は、委員長に就任したアール・ウオーレンの名前をとって”ウオーレン委員会”と称されることとなった。それから10ヶ月後の1964年9月24日に報告書がジョンソン大統領に提出されるまで延べ595名の証人尋問をおこない一冊の報告書と二十六巻の付属文書によって纏められ世に出たのである。そしてこれが、報告書をめぐっての現在までまさに百家争鳴の大論争の端緒となったのである。
実はこの種の調査委員会は議会内に設置されることが通例であった、それに、事件発生直後からFBIは独自の調査を開始、1963年12月3日には5冊の報告書としてまとめて報告書を作成している。まさに異例ずくめのスタートであった。当初からいわれていたことであるがこの委員会の人選も調査を目的とするよりか、きわめて政治的な配慮が前面に押し出されたものであった。以下ウオーレン委員会の委員名簿である。

ケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会

委員長 アール・ウオーレン最高裁判所長官

委員

リチャード・B・ラッセル民主党上院議員

ジョン・シャーマン・クーパー共和党上院議員
ジェラルド・R・フォード共和党下院議員
ヘイル・ボックス民主党下院議員
アレン・W・ダレス前CIA長官
ジョン・J・マクロイ元世界銀行総裁

実に見事な人選である。議会内の多数派である民主党からはラッセル上院軍事委員長・ボックス下院院内総務といった上下両院のボスが就任、同様に共和党からも二人のボスが就任している。最高裁判所内でも、もっともリベラルと言われるウオーレンを頭に据えて、東部エスタブリッシュメントのサラブレッドのマクロイが彼らを代弁し、CIA・FBIなどの官僚機構の代表としてもってこいの人物ダレスが配置されている。ジョンソンのアメリカを構成する政治・官僚・経済のあらゆる分野からの後々の非難をかわすための人選に苦慮したあとがうかがわれる。特に委員長にウオーレンを配したことは後の世論構成に極めて有効な人選であった。
では、この委員会の真の目的はどこにあったのであろうか。それは明らかに暗殺に関する陰謀の存在を抹殺することにあった。委員会の法律顧問であったメルヴィン・アイゼンバーグのメモが後に公表されている。「大統領が言うには、アメリカ国内においても、また外国においても、大袈裟な噂が立ち始めている。ある噂などは、暗殺はジョンソン大統領実現を欲した政府部内の一部の人たちによって遂行された、とまで報じられている。」このことを早急に沈静化しなければジョンソンにとっては政治運営どころの騒ぎではないのである。それにこれらの陰謀説にストップをかけなければ、翌年の大統領選挙にそれらの問題が絡んでくることを憂慮していたのである。妙な噂がまことしやかに流されたら選挙に響くことは確実である。陰暴説を打ち消す為には、それを調査するメンバーに社会的信用がなければならない、その意味でもこの七名の人選はうってつけでもあったのである。
しかし、ジョンソンにも委員会のメンバーにも最初から真実を追究しようといった姿勢や気持ちなどまったく無かった。このことは国立記録保存所で偶然発見された委員会の法律顧問ノーマン・レドリッチから主席顧問リー・ランキンにあてたメモによってもあきらかである。メモにいわく「我々の目的は、完全な正確さで事実を解明するのではなく、オズワルドが単独で犯行を行ったと言う、仮定の結論に肉付けをすることにある。」このように、ウオーレン委員会の姿勢は最初から決まっていた。陰暴説を打ち砕く為に委員会はすべての真実を破壊してしまったといっても過言ではないかもしれない。

ウオーレン委員会の運営

ウオーレン委員会は法廷ではない。したがって誰が有罪で、誰が無罪かを争う場ではなかったはずである。あくまでも多くの証言を集めその証言を精査していく事にあったはずである。しかし、現実に委員会での証言の取り扱い方は、まるで容疑者オズワルドに対する検事の役割をほうふつさせるものがあった。例えば、事件当日現場に居あわせ”銃声はグラッシーノールから聞こえてきた”とマスコミその他に発言した数多くの人々のうち、ほんの数人だけが委員会で喚問されているが、その数少ない証人に対する意見聴取は次のようであった。
ドナルド・ベーカー夫人は当時エルム通りの教科書ビルの下に居て銃声は上からでなく、操車場の方から聞こえた。と語って居た人物であるが、彼女に対して委員会法律顧問のウエッズレー・J・リーベラーはこう質問して居る。[しかし、あなたはあとになって、たとえば新聞などで、銃弾は実際はテキサス教科書倉庫からだった、と読みましたよネ?」「はい。」とベーカー夫人の答え。「新聞に書いてあったことは、当日あなたが実際に聞いたことから判断して正しかったと思いますか?」と、リーベラーは続けて聞いた。夫人は言葉につまり「ええ、そう。風のいたずらだったら・・・・・・・でも私は風のいたずらとは思いませんけれど。」
ジェームス・テーグ、メイン通りの陸橋の下でモーターゲードを見物して居て、兆弾で頬を傷つけた人物である。彼が委員会で「銃声は茂みのほうから聞こえた。」と証言すると、リーベラーは、こう言って焦点をはぐらかしてしまう。「もちろん、我々には銃声が教科書倉庫からだという証拠もあるのですが。まあ、そのことは忘れて、あなたが何を聞いたのかだけを考えてみましょう。・・・・」テーグが自説に固執すると、リーベラーは「事実、あのあたりだと”こだま”が聞こえるのではないですか?」と応酬した。テーグの答えは「私のいた場所からは、”こだま”など全く考えられない。以前にも聞かれたけれど、あれは絶対に”こだま”なんかじゃなかった。」と答えると、リーベラーは早々と質問を打ち切ってしまった。
アブラハム・ザプルータ、いわずと知れた人物の意見聴取では、まるで礼儀をわきまえないような問答を非常識にも委員会の席上行っている。ザプルータが「銃声は、私の後ろのほうから聞こえました。」と述べて、続けて「犯人はひとりだったと証明されたと言われていますが、実は二人いたかもしれない証拠もあるのではないのですか?」と言うとリーベラーは、(ザプルータの表現を借りると)薄笑いを浮かべてこう言った。「あなたのフィルムが、犯人は一人だとする本委員会の結論にとても役立ちましたよ。」と言い放ったのである。ザプルータが喚問されたのは委員会の調査のまだ中盤の時期である。
これらはまさに陪審員を前に容疑者を糾弾する検事の手法そのものである。しかし、法廷論争を挑むがごとき委員会も、自分の都合の良いときにはその公平さを遺憾無く発揮する。オズワルドの妻マリーナの喚問である。アメリカ合衆国法廷に容疑者の肉親を呼んで証言させるような検事や弁護士は一人としていない、証拠として認められることの絶対にない無駄骨であるからである。しかし委員会はマリーナの証言をことごとく前面におしだしている。いわく、例の”殺人の為の武装”と呼ばれた写真を彼女が撮ったこと、その日付けまで正確に認めている、さらにオズワルドがライフルの手入れをしていたのを目撃したことも重要な証言として取り上げている。(事件直後からマリーナは写真を売ったり、インタビューに答えて得た報酬は軽く二十万ドルを超えたともいわれている、さらに委員会の証言に前後してハーパー&ロウ社という出版社から彼女の話をもとにした本を出版すると言われて彼女は十万ドルの前渡金を受け取っている。しかしその本はついに出版されることはなかった。)

ウオーレン委員会解散後

1964年9月24日ウオーレン委員会はその任務の結果をジョンソン大統領に報告した。これで彼らの任務は終了したのである。その後の七名の委員の運命は非常に興味深いものがある。委員会の進行中すべての委員が結論に賛成したわけではない、特にリチャード・ラッセル、ジョン・クーパー、ヘイル・ボックスの三人は程度の差こそあれ委員会の結論に批判的であった。ラッセルはマスコミにウオーレン報告書に対する疑問を流した最初の委員であった、彼の不満は、主にCIAとFBIが事件に関する重要な情報を委員会に提出せず次々と抹殺した点にあった。彼は1970年1月19日付のワシントンポストにケネディの暗殺は陰謀であったと言うニュアンスの記事を寄稿した。そしてその記事が掲載されてまもなく彼は突然死亡する。
さらにヘイル・ボックス、彼は報告書に署名はしたものの最後まで委員会の結論に疑問を抱き続けた。かれは委員会が解散して七年後、公然とFBIを非難した、理由は委員会が活動していた時期、委員会の重要なメンバーの電話がFBIによって盗聴されていた事実を知ったからである。かれの非難はFBI長官のフーバーに集中した、彼は議会で演説をしてフーバーを無能な老害者ときめつけ、その辞職を迫った。もちろん、議会の席上でフーバーの辞職を迫ったのは、後にも先にも彼一人である。下院でも雄弁家として知られた彼の演説は説得力があった。彼は法を守るべきFBI自身が法を無視し、人権を抑圧していると言い放ったのである。この演説の後、政界には、ボックスは救いようの無いアルコール中毒患者である、といった噂が流れはじめた。そして1972年ボックスの乗ったアラスカ・インターエア社の飛行機が消息を絶ち、彼の遺体は勿論、機体すら発見されなかったのである。ボックスは存命であれば下院議長は確実といわれていた人物である、彼が生きていれば暗殺調査委員会は五年は早く開かれていたであろうと言われている。
そして、ジョン・クーパー、彼は活動中にケネディとコナリーの二人を傷つけた銃弾は一発であったといういわゆる”単発説”に強硬に反対した。しかし、解散後、彼はその主張にかんしては一切口を開こうとはしなかった。そして1968年駐インドアメリカ大使に任命された。かなりの栄転である。