・大統領就任

1961年1月20日ワシントンは前日の大雪で一面白一色の世界であった、しかし前日の吹雪が嘘のように空はカラリと晴れわたり太陽が輝いていた。氷点下7度という厳しい寒さの中、国会議事堂前の広場には早朝より大勢の群集が詰めかけていた。第35代アメリカ合衆国大統領”ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ”の大統領就任式に臨む為である。アメリカ史上最年少、若干43歳しかも史上初のカソリック教徒の大統領誕生である。就任宣誓の後、ケネディは、その歴史的責任を、自分自身に、そして国民に求めた。

”世界の長い歴史において、自由の最大の危機の際に、その自由を防衛すべき役割を与えられた世代はわずかしかいない。私は、この歴史的責任に対して、しりごみするものではない。むしろ私は、それを歓迎する。この地位を、他の国民、他の世代ととりかえたいと思う様な者は、我々の中にただの一人も居ない事を私は確信する。この努力に対して我々が傾注する精力と信念と献身とは、必ずや、我が国とそれに奉しするすべての人々を照らし、またその火より発する光は、真に世界を照らすであろう。”さらに彼は、全国民に対して”国家があなたに何をしてくれるのかとたずねるのではなく、あなたが国家にたいして、なにができるのかを考えて欲しい”と訴える。”トーチは次の我々の世代に引き継がれた!”と、たからかにニュー・フロンテイア精神を歌い上げたのである。

大統領就任式での宣誓するケネディ  
大統領就任演説をするケネディ  

・就任までの時代

1950年代第二次世界大戦の終結からわずか5年、世界は新たな形での戦争の予感に震えていた。現に、1950年6月には、朝鮮戦争勃発、アフリカ諸国での独立戦争と言う名の代理戦争、アルジェリア、エジプト、ベトナムと世界各地でその予感が現実になるかと思わせる時代であった、所謂、東西冷戦の時代の幕開けの10年であった、資本主義と共産主義の宿命的な対決は世界各地で大きな軋み音とともにひそやかに時をきざみ、米ソ両大国が世界を二分しそれぞれの支配地域での影響力は、現代では想像できないほど絶大なものがあった。国内的には1950年2月にマッカーシー上院議員の国務省職員の共産主義者告発に端を発したレッド・パージ。所謂、マッカーシズムの嵐の余韻はまだまだ国民の心に残り、共産主義に対する憎悪、嫌悪、恐怖は国民の心の襞として定着していた。

しかし、表面的に世界は、アメリカの持つまさに絶対的な経済力と軍事力を背景にしての、パックス・オブ・アメリカーナであり、アメリカが世界の警察官の時代でもあった。アメリカ国内では平和と繁栄に浸り、国民は底抜けに明るく自信に満ちていた、それは東西冷戦といっても実質的に米ソの力には相当な力の差があり、たとえソ連の核の初弾攻撃を受けてもアメリカは、報復としてソ連を25回叩き潰すだけの余力がある、といわれるほどの圧倒的な軍事的優位さのもつ精神的な余裕がなせる技であった。所詮ソ連は敵ではない、といったのが、まさにすべての国民の共通認識であった。アメリカはオールマイティーであった、これは独善と表裏一体の、国家にとってもっとも危険な兆候であった。ところが、これらの自信が一般国民が享受する安定生活の基盤としてのみ存在しているだけであったならば、単なるドンキホーテとして笑ってみていられるが、国家になんらかの影響力を持つ人々の共通認識となった時には、笑って見過ごすことのできない側面がみえてくるのは歴史が証明し、また経験してきた現実であろう。まさにアメリカの各分野、軍事、経済、はては、裏社会のギャング達までがそ んな気分に浸っていた。

黒人問題

そんなアメリカにも問題は山積していた、国内的には黒人問題、この問題に州政府・連邦政府を問わず政治家が介入する事は、政治生命の終わりを意味する程の自殺行為と言われてきた、南部の諸州、特にジョージア、アラバマ、ミシシピー、テキサスでは、現在では考えられない差別が当然であり、一般市民もそれを異常とは思っていなかった。たとえば、レストランやトイレは白人用、黒人用と厳格に区別され教育の場ですら同じ学校に通うなどということは絶対にありえなかったのである。これらの風土に育った人々の中には、所謂、超保守派層が形成され南部の諸州政府の実権は彼らが握っていた。そんな南部に1950年代の中頃より変化の兆しが現れてきた非暴力抵抗運動が野火のごとく広がり始め、そのリーダーとして、マーチン・ルーサー・キング牧師がその指導力を発揮し始めた時期であった、黒人公民権運動はその緒に就き、ケネディーが大統領に就任した1961年、すでに黒人非暴力抵抗運動はアメリカ全土に広がり、とうてい押さえ切れないところまで発展していた。これに対して、連邦政府の取るべき道は極めて限られた選択しかなかった、これまで通 り無関心をよそおうか、積極的に介入するかの二者択一であった。無関心を続ければ、最終的には白黒戦争にまで発展する危険性をうけいれなければならない。しかし、介入しても、白人層、特に南部州政府や主に石油産業経済を押さえる超保守派層を大きく刺激することはまぬがれない状況であった。

マーチン・ルーサー・キング牧師の演説 

キューバ問題

さらに、アメリカ人の喉にひっかかる存在が、自分達の中庭、カリブの海に浮かぶ赤い島キユーバの存在であった。1959年1月1日ハバナ陥落と同時に誕生した、フィデル・カストロ政権は、当初アメリカと友好的な関係を維持してきたが、カストロの目に映ったのはアメリカ人に搾取される自国民の姿だった、独自の産業とてない一小国が当時生き残るには、アメリカに頼る事が嫌なら当然の帰結としてソ連に頼るしかなかった。キューバはこの一年で急速に共産化に傾斜していた、カストロはソ連の支持を勝ち取るとアメリカ資本の排除に全力を投入した、ここで最も打撃を受けたのがマフィアと呼ばれる組織である、キューバは以前のバチスタ政権下の時代からアメリカ人の最大の観光地であり一種の無法歓楽街であった、賭博、売春、マリファナ等などありとあらゆる享楽を味わうことができたのである、当然これはマフィア組織にとっては最大の資金源であったのである、これがまさに一夜のうちに消え去ってしまったのである。共産主義キューバを倒せ、この一点でアメリカ世論とマフィアの望みは完全に一致していた、マフィアは再三にわたりヒットマンをキュー バに送りカストロの命をねらった、またCIAも暗殺者を送り込んでいる。平行して1960年3月、時の大統領ドワイト・アイゼンハワーは、CIAに権限を与えキューバ進攻を画策していた。CIAは、反カストロ派のキューバ人亡命者を組織すると、これをグアテマラのCIA基地に集結し軍事訓練を行っていた、ここの基地の指導者がエベレット・ハワード・ハントバーナード・バーカーフランク・スタージェス達である。ケネディが大統領に就任した時点でCIA主導によるこのキューバ人亡命者による軍隊は、1400名、一個旅団にまで達していた。しかし、いかに1400名の軍隊といえどもキューバ正規軍にたいしてわずかな武器で戦いをいどんでみても100%勝ち目はない、しかし計画は徐々に進行していった、CIA、国防省、国務省のメンバーで構成されたスペシャル・グループ、特にCIA関係者は別の見方をしていた。ある条件が備わっていれば、進攻は必ず成功すると。その条件とは、アメリカ正規軍特に空軍の援護である、これは完全なアメリカの介入を意味していた。

世界情勢

目を海外に転じてみよう、1953年3月スターリンの死去後のクレムリン内部の権力闘争に最終的に勝利したのは、ニキータ・フルシチョフ。党第一書記として実権を握った彼はスターリン批判をへて、世界の共産革命を支援した。その最大の成果として1954年5月7日ボー・グエン・ザップ将軍率いる共産ヴエトナム軍はデイエンビエンフーでフランス軍を壊滅させ、ホー・チ・ミンは、たからかに共産ヴェトナムの成立を宣言した、北ヴェトナムの成立である。さらにヴェトミンは南部ヴェトナムの解放を訴え陸続と南へ南へと進攻していた、ケネディ就任の日に前後してフルシチョフは第三世界での民族解放闘争を支援する大演説を世界にむけ流し、それに呼応するように南ヴェトナムでは南ヴェトナム民族解放戦線 所謂、ヴェトコンが組織された。当時アメリカでは、ドミノ理論と呼ばれる理論が世論の共感を得ていた、すなわち、一旦、共産主義と言う怪物に最初のドミノが倒されると際限もなく周辺のドミノ(国)が共産化してしまう、したがって我々アメリカは決して最初のドミノを倒させてはならない。と言うものである。当然 、アメリカは、南ヴェトナムに軍事顧問団を派遣しゴ・ジン・ジェム率いる南ヴェトナムを支援した、その数は2000を数えていた。
また、ヨーロッパでは、1955年5月ソ連の指導のもとワルシャワ条約が東ヨーロッパ諸国で締結され、ソ連を盟主とするワルシャワ条約機構軍が組織され、アメリカを盟主とするNATO北大西洋条約機構軍と対峙する事となった、そんな中、共産主義の荒海の真っ只中に浮かぶ橋頭堡”ベルリンはまさに孤立無援の島であった。これらの世界の状況に対して常にアメリカは、資本主義世界の盟主としての責務を常にはたし続けなければならなかった。パックス・アメリカーナを守る為に。
ここで、アメリカの軍部と経済界との利害は完全に一致した当時の経済界は軍事優先であり軍産複合がもっとも進んだ時期でもある。資本主義と共産主義、とりもなおさず米ソの対立は一時期好転するやに見えた時期もないではなかった、1959年9月ニキータ・フルシチョフは初のアメリカ訪問の旅に出た、しかしアメリカでの彼のパフォーマンスは、ソヴィエト・アズ・ナンバーワン的なものであり国連総会での演説も共産主義の大宣伝に終始しアメリカ国民の共産主義憎しの感情を逆なでするような物であった。そこにきて、米ソの対立を決定的なものとする事件が1960年5月に起こった、U2偵察機撃墜事件である、パワーズ飛行士操縦のスパイ偵察機U2型機がソ連上空を偵察飛行中にソ連のミサイルによって撃墜されてしまったのである。国際法にてらしても赦される行為ではなく、フルシチョフはアメリカの不法を世界に訴え、世界は緊張した。

それから半年、ケネディはアメリカ大統領として産声をあげたのであった。

・就任後の施策

ビックス湾事件

1961年1月21日就任式が終わった直後ただちにCIA長官アレン・ダレスと作戦次長リチャード・ビッセルは、新大統領に面会、キューバ進攻の計画の存在と実行を迫った、通常の引き継ぎ事項の政策表明や大統領命令と違って、この引継ぎ事項はそう簡単に取り消す事のできる性格のものではない、CIAの説明を受けたケネディはことの重大さと大胆さに仰天したといわれている。1961年4月4日キューバ進攻作戦にかんして最後の会議が国務省の一室で行われた、この時大統領は計画承認の絶対条件として、どのような状況に陥ってもアメリカ正規軍の投入は絶対に赦さない旨発言したと伝えられている。就任まもない彼にとってとりうる最大限の抵抗であった。そして4月17日、計画は実行された、世に言うピッグス湾事件である。計画はCIAの思惑通りにははこばなかった、亡命者軍は事前の空爆によって壊滅したと思われていたキューバ空軍の攻撃にさらされ上陸後わずか3時間でその敗北は決定的となった。事件発生直後の世界の反応はすばやかった、国連本部でキューバ大使は亡命者軍とは名ばかりで実質的にはアメリカCIA軍であると証拠写真をふりかざしてアメリカを非難した、またラテン・アメリカ諸国の反応はヒステリー状況であり、モスクワ、北京は、ベルリン、ラオス、朝鮮半島での行動開始をにおわせ始めていた、これ以上の世論の刺激を恐れたケネディは爆撃命令を撤回し一切の支援を中止させた。この命令に対するCIAの反発は強く、CIA長官アレン・ダレスとCIAの実質的な作戦最高責任者であった副長官チャールズ・カベルは強硬に中止命令の撤回とアメリカ空軍の投入を主張し大統領に迫ったが彼の答えは変わらなかった、ここに1400名の亡命キューバ人は取り残され計画はみじめな敗北となった。この敗北を境としてケネディの軍部、CIAに対する不信感は悪くなる一方であった、ついにケネディはダレス更迭を決意した、かつて1947年のCIA創設以来CIAの権威に対して挑戦した者は誰一人としていなかった、ケネディがその最初の人物となったのである、ダレスと共に更迭されたチャールズ・カベルは、以来ケネディを事あるごとにキューバを共産主義者に売ったヤツと非難し続けた。ケネディはCIAの改革に着手したが、彼自身CIAや軍部を完全にコントロールできるとは信じていな かった、巨大な軍産複合体の中心部分を形成する軍とCIAが、トップの更迭くらいで簡単に変わるわけがないことは彼自身が一番よく知っていた、そして現実にダレスの息のかかった幹部職員はその後も裏からCIAをコントロールしていた、その代表格が、リチャード・ビッセル、リチャード・ヘルムズジェームス・アングルトン達であった。

ベルリン問題

1961年8月13日の朝、ベルリン市民は突如として目の前に出現した壁に仰天した、ベルリンの壁の出現である。慢性的な西ベルリンへの市民の亡命に業をにやした東ドイツ政府は前代未聞の封鎖作戦を展開、この月末までに約150キロの壁が完成しベルリンはまさに陸の孤島と化した。このような状況下でベルリンを訪問したケネディはベルリン市民の前で、たとえどのような状況になってもアメリカはベルリンを見捨てないと演説、ソ連との対決姿勢を表明して喝采をあびている。当時、ソ連首相ニキータ・フルシチョフはケネディを若い単なるはなたれれ小僧、位にしか見ていなかったと思われるふしがある、激烈な権力闘争に勝ち抜いてきた、したたかなフルシチョフにとって若干43歳の若い政治家はそのように映ってもしかたがなかったかもしれない、この時期フルシチョフはかなり強引な対米施策を矢継ぎ早に実施している。その強引な施策がついにキューバ危機として全世界が核戦争の地獄絵を垣間見る事になる。

ベルリン演説映像

メレデイス事件

そのほんの少し前の1962年9月。アメリカ、ミシシピーで事件が起こった、メレデイス事件である。ケネディの内政政策のなかでも、黒人公民権政策はその及ぼした影響からいって特筆に値する。それはアメリカ社会、特に南部白人層に根強く植え付けられた既成観念を頭から否定するものだった南部伝統保守主義者達はそれを、正面きってのケネディの挑戦と受け取った。両者の衝突は、ミシシッピー州立大学の黒人学生入学問題を機に火を噴いた、この事件は公民権問題にからんで連邦政府が初めて大掛かりな実力行使の挙に出たという事で意義深い。1961年の秋ジェームス・メレデイスという黒人学生がミシシピー州立大学への入学を申請したが、大学はこれを拒否した、彼はこれを裁判に持ち込んだ、地方裁判所から最高裁まで一貫してメレデイスの主張は認められたがいっこうに大学はその決定を受け入れなかった。1962年裁判所の入学許可決定の履行勧告とともに、ケネディとロバート・ケネディ司法長官も州知事に対して要請をだしたが、州政府、大学ともに勧告、要請を無視しつずけたのであった。ロバート・ケネディ司法長官はメレデイスに護衛の連邦保安官を付き添 わせた、メレデイスは大学に姿を現したが学生や白人住民の妨害にあって学内に入る事もできない。まさに暴動寸前の状態であった、大統領は暴動阻止を名目にミシシピー州兵を連邦軍に編入する大統領命令をだしたが、ここにきて州知事との取り引きによって500名の連邦保安官に保護されて、メレデイスは学内に入る事ができたのである、ところがそれを知った一般白人住民2000人が銃、火炎ビンなどを持って大学に集まり暴徒と化した、彼ら一般白人達のスローガンは”黒人を大学に入れるな”であった、暴動は一昼夜にわたり死者3名重軽傷者200名の大惨事に発展してしまった。大統領は国防省に連絡して軍隊を派遣、暴動は沈静したが結果的に南部白人層の中にケネディは敵であると言ったイメージだけが残ってしまった。ケネディはテレビで全国に向けて黒人問題に関する立場を表明するとともに議会に対して黒人差別撤廃に関する法案(黒人公民権法案)を提出すると発表した。この事は一般白人市民を強く刺激した、それは、黒人問題をケネディが倫理面からえぐったことだった。彼は言う”我々は、基本的には道徳問題に直面している。リンカーンが奴隷を解放してから100 年の時が経過している、しかし彼らの子孫たちはいまだに完全に自由ではない。かれらは不正義のかせから自由にはなっていない。社会的・経済的圧迫から解放されていない。そして、アメリカは何を誇示しようが、国民全部が自由になるまで完全に自由な国家とは言いきることはできない。我々は国家として道徳的危機に直面しているのだ。”と・・・

キューバ危機

国内で黒人問題が表面化している頃、キューバにはソ連や東欧の船舶の出入りが異常に増加していた、キューバにミサイルがあるといった噂は依然から存在していたが確証がつかめない、そこで10月14日ケネディは偵察機のキューバ上空の飛行を許可した、U2偵察機の持ち帰った空中写真には驚くべき事実が映し出されていた、ハバナ近郊のサン・クリストバルの森林地帯に攻撃型中距離ミサイルの基地がまさに完成寸前の形で映っていたのである。ただちに政府の最高幹部が招集された、キューバは、ほんの庭先にあたる。そんな所にソ連の息のかかったミサイル基地ができるなどという事は断じて許される事ではない。会議は連日13日間にわたって続けられる、当時外科手術と呼ばれた基地破壊作戦は、米ソ全面戦争へ発展する恐れがあった、それは、核戦争を意味し人類の滅亡すら懸念された、ケネディは最終的にマクナマラ国防長官の提案した海上封鎖に意見を傾けていく、この案は全面戦争をさける為の知恵であり、ソ連に脅威をあたえる事によって戦争へのエスカレートを抑止しようというものである。海上封鎖によってソ連の出方を待ち、見極めるという柔軟な戦略こそが現在とりうる最良の策と考えたのである。10月22日ケネディはテレビによって現状を訴えた、基地建設はアメリカの平和と暗然に対する明白な挑戦であると。今後、キューバに攻撃用兵器を持ち込もうとする船舶はすべて、実力をもって引き返させると発表したのであった。10月24日海上封鎖が開始された、その時25隻のソ連船団がキューバに向かっていた。この船が封鎖ラインに近ずくにつれ、全世界はこの船団に注目し緊張した、はたして船団は封鎖ラインを強硬突破するのか、それとも、引き返すのか・・・・
封鎖海域で停船したままソ連船団はアメリカ艦隊と対峙した。10月30日ついにソ連船団は向きを変え、封鎖海域から立ち去った。フルシチョフがケネディに屈服した歴史的瞬間であった。この10日間、人類はまさに核戦争の瀬戸際に立っていたのである。この事件で、米ソは人類の終焉をかけた外交努力をおこなっている。この経験はケネディにとって対立から共存への政策的大変換を決意させた、アメリカは強大な力は持ってはいるが、決してオールマイテイーではないと悟ったのである。歴史的なアメリカン大学での平和共存路線の提案以降、米ソは急速に接近した。この時期から”デタント(緊張緩和)”という言葉が頻繁に使われ出したのである。

ベトナム問題

就任直前、南ベトナムには2000人の軍事顧問団が常駐していた。すでに共産主義者に北半分を奪われたベトナムを支援する事はアメリカにとって絶対的使命であった。ケネディは、就任直後発足させたベトナム問題特別委員会や統合参謀本部に対してアドバイスを求めた、この二つの組織はまったく同じ結論に達し、大統領に進言した。ベトナムの解決はアメリカ戦闘部隊の投入以外には考えられない、というのである。ケネディはあくまで、ベトナム問題の政治的解決を望んでいた。ビックス湾での経験から、軍事的解決に対する不信感があったことは、十分考えられる。ベトナムに関する彼の見解は次第に固まりつつあった。「90マイルしか離れていないキューバに対する軍事行動をも正当化できない我々が、9000マイルも離れた東南アジアでの戦争を、いったいどのようにして正当化出来るのだろうか。」と・・・1963年9月3日テレビのインタビュー番組でこのように述べている。「最終的には、これは彼らの戦争なのである。勝か負けるかは彼ら自身にかかっている、我々は手助けをする事は出来るが、このベトナム国民対共産主義の戦いにおいて実際に戦って勝たなければならないの は、彼ら自身なのだ。」と。これは、いままでのパックス・オブ・アメリカーナ、世界の警察官の立場を放棄したに等しい発言なのである。しかし、ケネディは軍事顧問団の派遣は続けた、1963年10月の時点で、その数は15000名に達していた。しかしかれは、これについても再検討をはじめる、1963年の12月までに軍事顧問団の1000名の引き上げ計画を発表する、そしてさらに11月の死の直前、には1965年までに、アメリカはベトナムから一切手をひく事を発表している。この事は伝統的軍事優先の軍部、CIAにとって耐えられない事態であり、さらに、平和では利益を得る事のできない軍産複合体にとっても同様であった。

こうして1963年11月22日を迎えたのであった。