1969年1月29日アメリカ・ルイジアナ州ニューオリンズ郡刑事裁判所で一つの裁判が始まった。原告はルイジアナ州、被告はクレイ・ショー。この裁判は1969年3月1日に結審して原告側敗訴で終わった。世に言うクレイショー裁判。ケネディ大統領暗殺事件そのものが法廷で争われた唯一の裁判である。ルイジアナ地方検事の職に有り、検事としてこの裁判に携わった人物が、ジム・ギャリソンである。

このページをお読み頂くにあたって、読者諸兄が必ず混乱するであろう時間的な流れについて説明させて頂きたい。ジム・ギャリソンの名前は1970年当時、日本においては一部事件研究者の間でしか知られていなかった、しかし、現在では、ほんの少し事件に興味のある方でしたら大部分の方にその名前は記憶されている。特に1991年に映画”JFK”が公開されて以降その名前は以前に増して流布された。ここであえて説明させていただきたいのは、映画”JFK”の原作となった、ジム・ギャリソンの著書”JFK、ケネディ暗殺犯を追え”は裁判がおわってから19年の後1988年に書かれたものである事である。映画”JFK”すなはちギャリソンの著作には、裁判当時には立証できなかった事実や未発見の事実も記載されている点である。万一、地方検事としてのジム・ギャリソンがその著作に書かれている事実を裁判当時知り得ていたならば、裁判の結果は計り知れなく違ったものに成ったであろう事は間違いないのである。1977年の合衆国下院暗殺問題調査特別委員会の結論やこの20年の間の数々の研究が裁判当時と、ギャリソンの著作との間に存在することを、是非頭の中に記憶されたい。

事件への関わり

1963年11月22日、ギャリソンはニューオリンズの地方検事局の事務所でケネディ暗殺の悲報を聞いた、彼の驚きは他のアメリカ国民と同様のものであり、まさか自分自身の後半生がこの事件によって劇的に変化するなどとは夢想だにしていなかった。しかし、数時間後、容疑者として”リー・ハーヴェイ・オズワルド”の名前が知らされた瞬間彼の運命は決定したのであった。リー・ハーヴェイ・オズワルドの名前はニューオリンズにおいては、まだ記憶に新しい名前である。わずか4ヶ月前この街でキューバ公正委員会を名乗ってトラブルを起こした人物である。当然オズワルドの名前が事件の重要容疑者としてあがった以上、ニューオリンズの地方検事であるギャリソンは、オズワルドのこの街での行動や交友関係を調査することは彼の仕事であった。
調査の結果、一人の人物が浮かび上がった、”デヴィット・フィーリー”。ニューオリンズでのオズワルドの交友関係のなかで暗殺事件当日極めて不可解な行動をとった人物である。彼はこのフィーリーに注目して尋問する、その結果彼が事件当日、テキサス州ヒューストンに行っていたことをつきとめたのである。そして、フィーリーをオズワルドの共犯者の可能性のある人物として連邦警察の手に委ねたのであった。しかし、数日後、連邦警察はフィリーを事件とはまったく無関係との結論で釈放したのである。
1963年時点での彼の捜査は終わった。特に暗殺事件に関して直接的に捜査に関与する立場でもなかったからである。

そして3年の歳月が流れた。

ウオーレン報告書への疑問

1966年ニューヨーク行きの飛行機に搭乗したギャリソンは、たまたまルイジアナ選出の上院議員ラッセル・ロングと隣り合わせた。ロングはウオーレン委員会の公式記録は信用できないと言う話をギャリソンにしている。ギャリソンは日常の仕事に追われて報告書を未読であった。後にウオーレン報告書を読んだ彼は数々の疑問を発見する。特に彼自身が1963年当時調査した”ニューオリンズにおけるオズワルド”の項目に関しての記述は、自分自身の調査結果と違ったものであった、彼自身のウオーレン報告書にたいする懐疑の始まりであった。彼は、自分自身での捜査を再開する。ニューオリンズ地方検事局のスタッフと共に”極秘調査”を始めたのである。この、極秘捜査が裁判直前から裁判以降の彼に対する批判の源泉となるのであるが、兎に角捜査は始まったのである。
この間に彼が捜査した疑問点は、このページでほとんど紹介されているので割愛するが現在のケネディ暗殺事件の研究の半分以上の代表的疑問点はこの間のギャリソン検事の捜査によって明らかにされたものである。では、彼はいったい何を裁きたかったのであろうか?彼は、暗殺の犯人を捜査したわけではないし、ましてやそれを指示したかもしれない黒幕といわれる存在を暴き出す事を目的とした訳ではない。あくまでもオズワルドのニューオリンズでの行動を捜査する事によってなんらかの共犯関係が存在したかもしれない事を調査したのである、最初の時点では”陰謀”などと言う大袈裟なものではなかったのであるが捜査の過程での国家組織。特にFBI,CIAの干渉や非協力は次第に彼にして”自分はひょっとして”虎のシッポ”をいじくりまわしているのではないか?”との疑問に直面したのであった。

キャンプ街544番地

前述したようにギャリソン検事の調査結果や疑問の提示は割愛するが、彼の捜査の原点となった部分だけは重複を恐れず、紹介したい。
1963年8月9日ニューオリンズでオズワルドは”カストロ支持”のキャンペーンを張る。”キューバ公正委員会”これがかれの名乗った組織の名称である、問題はその事務所の所在地である。ビラに印刷されたキューバ公正委員会の事務所は544,CampSt.NEWORLEANS,LA.(ニューオリンズ、キャンプ街544番地)である。ここには、何の変哲もないテナントビルが建っている。ここのテナントに入っている事務所が極めて奇異な感じをいだかせる、ガイ・バニスター探偵事務所(彼の名刺の住所はラファイエット街531番地であるが入口が違うだけで建物は一緒である)・キューバ革命委員会(反カストロ団体)、まさに呉越同舟である。まずガイ・バニスターとはどんな人物か、彼は元FBIのシカゴ支局長である、そして退職後、私立探偵事務所を、ここニューオリンズに開いているが、仕事の内容はすべて政治的なものばかりであり、特に反カストロ工作の仕事が100%であった。そしてここで働く一人がデヴィット・フィーリーであり、さらに、この事務所に頻繁に出入りしていた人物、ニューオリンズの有名人であり実業家でもあったクレイ・ショーである。
キューバ革命委員会。この組織はニューオリンズに数多くにあった反カストロ団体の統合連絡事務を取り扱っていた組織である。この連絡事務所の設立にあたっては、CIAがそのスポンサーであったとされている。この組織に調整役としてCIA本部からまわされてきた人物が、亡命キューバ人のグアテマラ訓練基地(時代背景キューバ問題の項、参照)の指導者エベレット・ハワード・ハントとバーナード・バーカーの二人である。そしてギャリソンはこの事務所こそがニューオリンズにおける”マングース作戦”(キューバ危機の項参照)の前線基地であったことをつきとめる。さらにはこの場所での驚くべき人物相関を発見するのである。

ジム・ギャリソン検事記者会見1
ジム・ギャリソン検事記者会見2

オズワルド・フィーリー・ショーそしてジャック・ルービー

ニューオリンズからダラスへ・・・・キャンプ街の小さな建物での人物の結びつきはダラスのジャック・ルービーに繋がっていく。そしてフィーリーの役割も明らかになっていくのであった。彼はアメリカの一流航空会社のパイロットであったのだが異常性癖によって解雇されている。そして、ニューオリンズで一時 Civil air Patrol(CAP)の教官を務めていた、この組織にオズワルドは加入していた時期が有ることも分かった、パイロットとしての技量は優秀であったと言われている。そんな彼が、事件当日テキサス州ヒューストンに行っていた、彼の役割は犯人の逃亡の為の飛行機の操縦であったのではないか?とギャリソンは考える。そして少なくともこの4人の間では大統領殺害の計画が存在していたと考えるように成ったのである。そして自分の捜査に対する陰に陽にのCIA,FBIの干渉はもっと大きな計画すなはち大統領暗殺の陰謀が存在したと結論ずけるのであった。
この推論にいたるギャリソンの考えは以下の三つの柱からなっていた。一つには、クレイ・ショーやデヴィット・フィーリーに関する捜査によって明らかになった多くの事実、二つに、前述のように政府組織の捜査妨害や明らかな隠蔽工作、三つにケネディの暗殺直前の政策決定をめぐる利害関係である。この陰謀の証明の為に絶対的に必要な要因がある。それは、クレイ・ショーもしくはデヴィット・フィーリーが政府機関の裏の職員であったことを証明する必要があった。

デヴィット・フィーリーの死

ギャリソンは当初検察側の最大の切り札としてデヴィット・フィリーを想定していた。彼こそがもっとも事件そのものに深く直接的にかかわっていた可能性のある人物であるからであり、クレイ・ショーと同程度に事件の事情に精通していたはずである。司法取引によって彼を味方につければクレイ・ショーを追いつめることができたはずであった。しかし1967年2月22日彼は突然に死亡する。ギャリソンはこのフィーリーの死を自分自身で捜査した。徹底的な捜査が行われ彼はフィーリーの死を他殺と確信するが検死官は”自然死”と発表したのである。

クレイ・ショーの起訴そして敗北

1967年3月2日ギャリソン検事はニューオリンズ経済界の大立者でありニューオリンズ・トテードマート・センターの会長でもありかつニューオリンズにおける慈善団体の役員を数々兼務する、クレイ・ショーを逮捕する。罪状は大統領暗殺に関わる陰謀罪であった。米国では逮捕後、大陪審によって起訴の可否が決定されるのであるが、他州の人物を大陪審に呼ぶ手続きや、政府の持つ公の記録類(ここではオズワルドの納税記録や個人情報ファイル)はすべて連邦検察局を経由して行われるのである、結果はすべて拒否または門前払いの決定であった。このような事は地方検事として過去5年間の経験上初めてのことであった。しかし彼の地道な調査の結果は、大陪審においてショーの起訴に成功するのであった。彼の起訴論旨は、この事件はCIAや軍部の計画した国家的陰謀すなはちクーデターであり、クレイ・ショーはその構成員の一人であったと言うものである。その証明の為には、大統領狙撃犯は複数であること、さらにはクレイ・ショーがCIAの職員もしくはその指示によって行動していたことを証明する必要が有った。しかし連邦検察局の非協力や国家機関の妨害工作の前でこの事を証明する ことは不可能に近いことであった。結果は大陪審での起訴を勝ち取ることが精一杯であった。

1969年1月29日、ニューオリンズ郡刑事裁判所においてエドワード・ハガティ判事のもとで開かれた。この裁判の過程でギャリソン検事は被告の個人的性癖などの個人攻撃は一切せずに正攻法の弁論に終始している、さらには決定的証言を期待できる数人の人物の召喚を彼等の事情を慮って行っていない。それに対して被告側の有能な弁護士アービン・ダイモンドは、検察側の証人にたいしてその個人攻撃によって証言の信頼性を低減させる作戦にでた。裁判の結果はルイジアナ州の敗訴すなはち無罪であった。

ギャリソン攻撃と歴史の証明

裁判前後のギャリソン検事に対する個人攻撃は常軌を逸したものであった、曰く、政府の権力や大衆の信頼を悪用し自己の名誉欲を満足させる為、市民の税金を使用した売名主義者・何の根拠もない事を承知の上でクレイ・ショーを検挙し魔女狩りにうつつをぬかす検事・さらにはクレイ・ショーの同性愛僻を暴き出し一人の市民を破滅させた卑劣奸・等など、数え上げたらきりがないくらいである。しかしこの反ギャリソンキャンペーン自体が後にギャリソン自身の正しさを証明することとなったことは歴史の皮肉である。1977年FOIA(情報の自由法)が施行され、一枚のCIAメモが公表された。この1967年4月1日付のメモにはウオーレン委員会の批判者達に対する信用失墜の戦略がはっきりと記されていた。マスメディアを利用したこの戦略手法は、まさにギャリソンに加えられた数々の批判中傷がCIAの戦略そのものであったことを如実に物語っているのである。さらには1967年当時、ほとんどの人々が受け入れることのできなかったギャリソンのメッセージ”CIAが国際的陰謀にかかわっている。大統領暗殺もその一つでしかない。”と言う呈示はチャーチ委員会で白日のもとにさらされ、ヴ ェトナム戦争・ウオーターゲート事件・イランコントラ事件・バンク・オブ・クレジット銀行事件等が次々と摘発されていき、いまやCIAが当時は国際陰謀組織の頂点に君臨していたことは誰も疑う者はいない。その過程ではからずもクレイ・ショーがCIAのルイジアナ州の責任者であったことも、元CIA長官リチャード・ヘルムズによって暴露されたのであった。さらに、ヘルムズ長官の補佐官を勤めたヴィクター・マーチェティーは、デヴィット・フィーリーもCIAの協力者であったことを認めた上で、ギャリソン検事が事件捜査中にヘルムズ長官がCIA内部においてクレイ・ショーの弁護への関心を繰り返し表明し、彼を助ける為にできるだけのことをするようにCIA組織に促していたことを認めたのであった。一方、自分達の税金を、ニューオリンズ市民にとってなんの意味もない大統領暗殺事件の捜査に湯水のごとく浪費したと批判されたギャリソンは、ショー裁判の後それまで以上の大差をつけて地方検事に再選され、次にはルイジアナ州控訴裁判所判事に二度にわたって選出されている。ニューオリンズ市民は国家権力の間違いを告発し、国家の嘘を糾弾した自分達の検事を誇りに思っ たのである。

ギャリソンにたいする批判の中で、もっとも最たるものは”それでは、いったい誰がケネディを撃ったのか?”と言うものである。ギャリソンが告発したことは、国家機関の暗殺への関与であり、国家が自国民に対して行った嘘に対するものであった。(最近でも、嘘にたいするアメリカ国民の嫌悪は大変なもので、それで苦労している方も居りますが。)確かに、ギャリソンは誰が撃ったか?に対する明確な答えを出していない。また出すことはできなかった。それでは、その様な問いかけに対して私は問い掛けたい!。”では、いったい誰がその答えをだしているのか?”と、莫大な金と大規模なスタッフを抱えたウオーレン委員会ではないことは確かだ。「おそらく、陰謀が存在した。」と結論しながら従犯の名前を挙げなかった下院暗殺調査特別委員会も違う。このような、政府調査団の為し得なかったことをギャリソンに求める事自体が理不尽ではないだろうか。彼は、一地方の検事である、小規模なスタッフと共に、極めて少ない予算で、常に政府や報道機関と戦う事を余儀なくされ、機密の政府ファイルを利用する事もできずに、いったいどこまで真実に迫りうるであろうか?ギャリソンにかかわ らず他の誰であれ、封印された文書が公開されたならば推測など必要ないのではないだろうか?