1959年10月31日、土曜日午前11時。モスクワにある駐ソアメリカ大使館の領事リチャード・スナイダーは受付のジーン・ハレットの言葉を聞いた。「男の人が来て、アメリカ国籍を放棄したいと言っていますが。」リー・ハーベイ・オズワルドが歴史の表舞台に登場した瞬間である。彼のソ連亡命の意図はいったいどこにあったのか?本人の意思であったのかそれとも何らかの力が動いたのか、いまだもって不明である。彼の亡命の真意を探るにはその意図を説明しなければならない亡命手続きの状況を考察する事が一番ではないだろうか。

モスクワの亡命劇

オズワルドがアメリカ大使館を訪れた時、偶然その場所にいた一人の人物の証言がここにある。ネッド・キーナン、レニングラードで勉強している大学院生で、この日はビザのことで相談に来ていた。「私が来た時には、彼はもう長椅子に座っていました。そこで、その隣に座ったのです。そう、ちょっと忘れられない人物でした、第一服装が変でした。モスクワの10月末の季節にしては軽装であったことを今でも覚えています。」 ジーン・ハレットに案内されてオズワルドは領事部の部屋に入っていった。もう一人の領事ジョン・マクビガーの横を通り、彼はスナイダーの机の前に立った。スナイダーはその時の印象を次のように語る。「ダークスーツに白いシャツ、ネクタイと身だしなみには申し分ありませんでした、そう、ビジネスマンと言った感じでした。でも、少し変だったのはこの季節にコートも帽子も身に付けず、礼装に使う薄手の白手袋だけでした。彼は私の前に立つと、手袋をわざとらしく外しましたが、その動きが何か”温かみのないロボット”のようでした。」
「どのようなご用件でしょうか?」スナイダーの問いかけに、オズワルドは、あたかも入念に準備してきた文書を読み上げるかのように断固たる調子で、しかし感情かけらも見せずに答えた。「アメリカ合衆国のパスポートを返却し、アメリカの国籍を放棄する為に来ました。」そして、ソ連に亡命する意志を記したメモを仰々しくスナイダー(写真左)に手渡したのである。オズワルドは続けた。「じっくり考えた上のことですし、自分がやろうとしている事の意味もよく心得ています。9月11日に海兵隊を除隊したばかりですが、この件については二年間も考えてきました。」部屋の反対側にいたジョン・マクビガー(写真右)も耳をそばだて始めていた。「領事、あなたがこれから何をおっしゃりたいのか解っています。ですが、説教も忠告もしてほしくありません。お互い時間の無駄ですから。書類を下されば、署名してすぐに帰ります。」オズワルドの言う書類とは、正式にアメリカ国籍を放棄する書類のことである。
その確信に満ちた、傲慢にすら映る態度にスナイダーは感じた、「大使館に行ったらこうしようと稽古してきたに違いない、あれはあらかじめ用意されたセリフだった。」確かにオズワルドは準備万端整えていた、当時、9月に海兵隊を除隊した人物が10月半ばにモスクワに着く事は、完全に計画された最短コースをとらなければ不可能であった。オズワルドはヘルシンキ経由でモスクワ入りしている。このヘルシンキ経由というのは、アメリカ人にはなじみがないが、当時どんな国よりもはるかに短期間でソ連のビザを取得できる絶好のルートであった。このルートを一般人のオズワルドが知っていたとは思えない。とマクビガーはウオーレン委員会で証言している。それでも実際には当時ヘルシンキでもビザの発給を受けるには平均一、二週間はかかった。この点はウオーレン委員会も認めている。だが肝心な事は、ヘルシンキでは他のどの国よりも「例外」が頻繁に認められていたことである。オズワルドは「例外」の認められやすい理想的な場所にアメリカから直行し、その例外適用を受ける事に成功している。ウオーレン委員会によると、オズワルドはわずか二日でビザの発給を受けているのである。彼は海兵隊を除隊したばかりのごくありふれた人物である。
オズワルドは大使館ではずっと冷静を装っていた。しかしスナイダーには「彼は内面では時計のゼンマイのように緊張しきっていた。会話の主導権を握ろうと懸命であったように見えた。」と語っている。オズワルドは入国の経緯から、すでに10月16日に時点でソ連最高会議に手紙を書いてソ連の市民権取得申請をしたことまで話した後、手に持った白い手袋を握り締めたまま沈黙した。スナイダーはなんとか弱冠20歳のこの若者の行動を阻止できないものかと思いを巡らせながら、彼のパスポートを眺めていた。そして、彼のパスポートの住所欄がわざわざ削り取られている事を見つけ攻勢に転じた。「国籍放棄の書類にはいくつかの基本的な情報が必要です。たとえば、あなたのアメリカでの住所や一番近い親族の住所が必要となりますが。」オズワルドは動転した、彼は母や親族を巻き込むことは予想もしていなかった。オズワルドは異を唱えたが、スナイダーは一歩も引かない。住所なくして書類はできない。ついにオズワルドは、母マルガリートのフォトワースの住所を教えた。
オズワルドは話の主導権を失った。スナイダーはたたみかけるように「どうして、ソ連に亡命したいのですか?」オズワルドはとっさに「主な理由は、私がマルクス主義者だからです。」と答えた。スナイダーは婉曲に攻撃的な言葉を投げかけた、言外にソ連社会はマルクス主義とは無縁であるとの意味をこめて「ソ連のマルクス主義者の暮らしは孤独ですよ。」巧妙な言い回しだったのでオズワルドにはピンとこなかったし、答えを用意していなかった。そもそも大使館でマルクス主義問答をするなど思いもよらなかったであろうし、第一スナイダーは役者が一枚も二枚も上であった、底の割れてしまったオズワルドは、当初からの言い分に戻るしかなかった、そして手続きを迅速に完了してほしいと再三食い下がった。そして質問攻勢をかわそうと、おそらく言うつもりのなかった重大な発言を口走った。その言葉をスナイダーは今でも良く覚えていると言う。「亡命を思いとどまるようにとあなたが説得するだろうとは言われていたのだが、その通りだった。」とオズワルドは言ったのである。

オズワルドファイルの出発点

この発言のもつ意味は極めて重要である、この発言を額面通りに受け取ればオズワルドは大使館に出向く以前に、大使館職員は何を言い、どのような行動に出るのかをオズワルドに対してあらかじめ警告した人物が存在することになる。それはいったい誰なのか。オズワルドが嘘をついているのでなければ、その人物はオズワルドの亡命行動そのものに援助の手を差し伸べていたと考えるのが理にかなっている。支援者の存在の可能性は実に驚くべき事であり、実際にスナイダーも含めてのちに多くの人々の関心を集めた。そしてさらに尋常でない展開が見られた、結果として以下の展開がオズワルドファイルの出発点となるのである。
スナイダーの質問はソ連領事として当然の質問分野に入っていった。あなたは、ソ連政府に協力する意志があるのか?の一点であった。オズワルドがこの質問をあらかじめ想定していたかどうかは興味深い、と言うのもオズワルドの答えは、本来スナイダーの協力を得て必要書類をもらうという計画からすると、これ以上不都合な発言であった。
このオズワルドの発言はその後スナイダーによって公電として本国に送られている。
「オズワルドは、自分が海兵隊のレーダー操縦士であったこと、そして当時、複数のソ連当局者に対して、ソ連市民になった暁には海兵隊や自分の専門に関する情報を提供すると申し出たことを、明らかにした。彼は、自分の情報が特別な価値のあるものである可能性をほのめかした。」
通常のレーダー操縦士として知りうる以上の「特別な価値のある」情報とはいったい何だったのか。オズワルドの頭にあったのはおそらく厚木基地に配属されていた時に入手した情報であろう。厚木基地は極めて機密性の高いCIAの作戦が実施されており、オズワルドが亡命した時もまだその作戦は続行されていた。
マクビガーも、オズワルドが「ソ連当局に」「機密事項を」提供するつもりだと語ったことを記憶している。スナイダーはのちに、彼の言う機密事項とは厚木基地のU2偵察機に関するものだったのではないかと推測している。それでは仮にそのとうりであったと仮定すると、オズワルドはなぜアメリカ大使館でそのことをほのめかす必要があったのか?と言う点にゆきあたるのである。彼は亡命に必要な書類をもらうために大使館を訪ねたのであり、このような発言は本来の目的を、より困難にする以外の何物でもないはずなのである。スナイダーはこの点に関して大胆な仮説を明らかにする。オズワルドは亡命書類の受け取りを名目として大使館の扉を開かせ、その場所で「私のオフィスにあるソ連の耳を相手に話をしていたのではないか」と、KGBがアメリカ大使館を24時間盗聴していた事は当時でも常識であり、オズワルドはその盗聴器に向かって話をしていたと言うのである、この仮説はその後のオズワルドの行動によっても補強される。
時刻は正午を過ぎていた「今日の業務は終わりです、今書類を仕上げることはできません、必要なら。二、三日後の業務時間内に取りに来てください。」スナイダーは告げた、するとオズワルドは踵を返して出ていってしまった。外で順番を待っていたネッド・キーナンの表現を借りると「まるで嵐のように、大使館を飛び出していった」のである。
こうしてこの日の亡命劇は幕を下ろした、その後彼は二度と大使館を訪れる事はなかった、あれほど執拗に要求し、二、三日に書類を渡すとスナイダーが述べているのにも関わらずである。この奇妙な行動によって4年後の悲劇の時に向かって大きく、かつ重要な点が残されたのである。一つにはこの時、彼が再度大使館を訪れ、正式に国籍放棄の書類を完成させていたならば、彼は再びアメリカの地を簡単に踏むことはできなかった。結果的にアメリカ帰還の道を残していたことになるのである。二つには、リー・ハーヴェイ・オズワルドの名前がワシントン、とりわけCIAで注目され、追求されるオズワルド関連の文書の興味深い出発点となるのである。