1950年代の後半アメリカ政界に彗星のごとく現われ、その若さと清潔な印象、さらには新興とは言え東部有数の財閥の跡継ぎ息子。美しく才能があり、若き夫のさらに一回りも若いフランス風の名前を持つエレガントで貞淑なイメージの妻ジャクリーン。さらに最愛の一人娘キャロラインと暮らす立派な家庭人。大統領職になった以後もホワイトハウスを走り回る子供達と遊ぶファーストファミリーの父として、全ての国民から愛され、そして尊敬されたジョン・F・ケネディ。しかしその虚像は1975年まったくの偶然から国民の前に明らかにされてしまったのである。現在では、ことケネディの私生活に関してのイメージは地に落ちたと言わざるを得ない。かつての「アメリカン・ヒーロー」の姿を追い求め、清廉潔白、人生の総てを合衆国に捧げた至高の人・ケネディを胸に描き神格化する人々にとっては、もはや「ケネディ神話の殿堂」の世界に奥深く入り込む以外に方法はなくなったと言えるのではないだろうか。今回は誠に不本意ながら避けて通れない項目としてケネディの女性関係に言及してみたい。

1975年上院チャーチ委員会

ケネディ大統領の奔放で、時としては無軌道としか言えないような女性関係が表面化したのは、事件から12年した1975年、全くの偶然からであった。当時上院に設置された情報活動調査特別委員会が戦後、歴代のアメリカ政府による外国指導者に対する暗殺工作を取り上げて追及していた。委員会はこの調査のなかでCIAがキューバのカストロ政権の打倒と、首相個人の暗殺工作を、ケネディ政権の上層部の支持もしくは了解のもとに進めていた事を明るみに出した。それだけでも、国際法や国連憲章に違反する重大な違法行為であるが、CIAがカストロ暗殺計画を進める中で、暗黒街の大物達の協力を得ていた事、こうしたマフィアのドンの愛人が、こともあろうに当時現職の大統領の愛人でもあり、ホワイトハウスや大統領の旅行先で数知れぬ密会を重ねていた事実が浮かびあがったのである。
1975年9月、委員会はこの愛人、ジュディス・キャンベル・エグスナーと名乗る女性を秘密の聴聞会に呼び出して話しを聞いた。しかし、あとで委員会が発表した報告書には、大統領とマフィアの共通の愛人は「ケネディ大統領の友人」とあるだけで、名前は勿論、住所も職業も、それになんと性別すらも書かれていない。この「友人」は1960年初め、すき通るような青い眼、肩まで届く長い黒髪で大統領選挙中のケネディ上院議員を一日で魅了した、当時26歳の元ハリウッド女優であった。報告書にそんな事を書けば、ケネディ大統領の不倫が、こともあろうに議会の公式文書にのり、しかもアメリカ大統領がマフィアのボス、正確には二人のボス達と愛人を共有したという前代未聞の不祥事を公表することになってしまうからである。委員長フランク・チャーチは委員長の権限を最大限に使って野党の公表要求を強引に封じ込めたのであった。それにしても、以降25年ほどの間に多数の研究者や関係者の証言、「情報の自由法」にもとずいて解禁された資料などで浮かび上がったケネディ大統領のプライベートな横顔は、どのような角度から見ても大衆を驚かせ、目や耳を疑わせるほどの異常さを帯びていることは認めない訳にはいかない。この項目を制作している最中にに、またしてもわれわれの耳を疑わせる一通の新聞記事が掲載された。ケネディ大統領とあのドイツの生んだ永遠の美女「マレーネ・デイートリッヒ」との密会の記事である。確かに1960年の初頭においてはデイートリッヒはすでに60歳を過ぎていたにもかかわらずその美貌は他を圧倒していたと言うが、それにしても、60歳は60歳である。この事が事実であったのならば、我々の心のなかにさらにその異常さに拍車がかかる事も残念ながら認めない訳には行かないのである。しかし、この様な現実に目をつぶるよりは、ケネディの乱れた私生活を歴史的事実として受け止め、このような性癖や素行を持った政治家が、一方では1960年代の世界政治や国内の政治・経済・社会問題に勇気とビジョンを持って取り組んだ姿を、一つの壮大な「人間ドラマ」として見つめるほうが実り多いものになるのではないかと考えるのは一人自分だけであろうか。

父・ジョセフの影

ケネディの女性関係のあれこれに立ち入る時、常に痛感させられる事は、彼が生まれた億万長者の家が世にもおぞましい不健全な家庭状況であったことである。
ジョン・ケネディの父ジョセフ・ケネディはご承知の通り、飢餓に苦しむ故郷アイルランドを逃れて「新世界」へやってきた貧困移民の三世であるが、株式投機、映画製作、はてはマフィアと手を組んだ、違法な密輸酒事業に手を染め、まさに一代で巨額の富を築き上げた人物である。評論家マイケル・サリバンは「貪欲こそがケネディ家の唯一無二のモットーであった」と厳しい言葉を吐いている。ジョセフは並みの一代富豪と違い、巨万の富を集めたあとも決して現状に満足せず、手を休める事無く、さらに多くの富、多くの権力、多くの名声を求めて突き進んだ。彼にとって人生とは次から次へと果てしなく続く力比べであった。その生活信条からくるケネディ家の家訓は「ナンバー2は必要無い。常にナンバーワンであれ。ケネディ家の人間は勝つ為にのみ存在する」といったものであった。そしてジョセフ自身その信条は終生変わる事が無かった。このような父親が、家庭で子供たちに見せる素顔に道義感がかけていたとしても決して不思議ではない。ジョセフは親代々のカトリック信者として厳しくしつけられて育ったにもかかわらず、事業の面でも家庭生活の面でも倫理観の留め金がみごとに外れていたのである。父ジョセフの女性遍歴はこのページで一項目を設けてもとても足りないほどのものであり、それらの素顔を見て育ったジョンやロバート・エドワードの心の中に同様の「正義」が植え付けられていったとしても致し方のない事であった。さらには、彼らケネディ兄弟にとって不幸であったことは、彼らの家族観、女性観を早い時期からねじまげてしまったのは、ジョセフの奔放な生活だけからくるものではなかった。敬謙なカソリック信者で、夫が留守がちの家庭で数多くの子供たちを女手一つで立派に育て上げ「良妻賢母」のモデルのように伝えられた母ローズも実際には「母親失格」に近い女性であったことが明らかになっている。ケネディ大統領が友人ビル・ウオルトンに語ったと言われる言葉が明らかになっている。ジョンが打ち明けた母親観とはこうであった。「母は直輸入のファッション洋裁店にいるか、教会でぬかずいているかのどちらかの日常だった。本当に側に居てほしいときには、いつも家を空けていた。母がこの私を抱いてほほずりしてくれたことは一度もない。絶対に、絶対に一度も無かったよ。」
ジョン・ケネディが終生、数多くの女性と浮き名を流しながら、青年期のごく一時期を例外として、一度たりとも愛におぼれたり、相手に献身的な愛情を注いだことがなかったのは、こうした心理的な「両親不在」の寒々とした家庭環境からきたものと思われる。そしてその悲劇は大統領自身の家庭においても演じられてしまったのである。彼は、上院議員時代の1953年に結婚したジャクリーンを人前ではごく大切に扱い、ホワイトハウスに入ってからも一貫して「愛妻家」のイメージを守り続けた。だがケネディにとって妻とは政治家の欠くべからざるアクセサリーでしかなく、決してそれ以上のものではなかったのである。そして、自分に期待されるこのような役割を自覚したジャクリーンも、そうした虚像を自分の側からも積極的に作り上げ、夫とは全く別の世界で生きるようになる。皮肉なことにケネディは30年ほど前の父ジョセフの役割を、ジャクリーンは同じく義母ローズの役割をそっくりそのまま演じていたのである。そしてケネディ亡き後のジャクリーンは自由を得た白鳥のごとくアメリカを捨てたのである。「最愛の夫を奪ったアメリカを、私は生涯憎む」という大義名分を翼として。

大統領が愛した「暗黒街の恋人」達

ケネディ暗殺事件の一年三ヶ月前の1962年8月5日一人の女性の死を伝えるニュースが全世界を駆け巡った。ノーマ・ジーン・モーテンセンと言う名の女性の死を伝えるものである。この名前では分かるまい、1950年代のアメリカと世界を沸かせた「性の女神」こと「マリリン・モンロー」その人である。彼女の死は40年近くなった現在でも尚、自殺説、他殺説が交錯しケネディの死同様にアメリカ国民の猜疑の目でみられている。そのモンロー自身もケネディの愛人であり、「キャメロット伝説」の重要な脇役の一人であった事実は当時のアメリカ国民が驚きながらも、現在では受け入れられつつある。しかも彼女の交友関係は一人大統領にとどまる事無く、弟ロバートとの錯綜した愛情関係がからんでいたと言う衝撃的な事実もあきらかになってきている。左の写真は1962年5月20日、大統領の誕生日祝賀パーティーの席上でマリリンが「ハッピー・バースデイ」を歌って祝福した時に舞台裏で撮影された、ケネディ兄弟とマリリンの三人が写った写真であるが、この写真を見たロバート・ケネディは激怒し、この写真を司法省の権力を使って非公開とさせたと言われるいわく因縁付きの写真である。彼女が死亡した頃のマリリンの自宅周辺はFBIやマフィアの手先達がうろつき、彼女自身の行動はこの二つの組織の完全な監視下に有った事が明らかになっている。ではなぜ一介の映画俳優(とは言ってもモンロークラスになれば”一介の”とは言えないであろうが)の行動が公の国家捜査機関や暗黒街組織の監視の対象になったのであろうか?FBIの監視は国家安全上の大統領に対する”保護処置”との名目に守られたフーバー長官の延命工作の一環であり、同様にマフィアの監視はマフィア組織の存続をかけた対ケネディ一族との戦いの一環であった事は明らかである。そして、このマリリンとジョン・ケネディとの交友関係の始まりにも、マフィアの魔手が働いていたという事実も又明らかになっているのである。ケネディ大統領の危険な「火遊び」の相手は、当然ながらマリリン・モンローだけではなかった。80年代後半に公表されたFBIの報告によると、フーバー長官直々の指令でケネディのホワイトハウスを事実上”監視”していたFBI当局は2年10ヶ月あまりの短い在任期間中に、ケネディ大統領がホワイトハウス及び遊説先の各地で「親密な関係」を持った女性を少なく見積もっても32人以上であるとし、そのリストをフーバーに報告している。
この中ではマリリン・モンローの知名度には及びもつかないが、交遊の深さと、とりわけマフィアの巨頭と大統領の連絡をとりもったことで重要な役割をはたした女性が、前述のジュディス(愛称ジュディ)・キャンベルであり、その存在は際立っている。ケネディは、大統領選挙戦中から始まり、当選して大統領就任後も二年足らずの間にジョージタウンの自宅やホワイトハウスで確認されただけでも約20回ジュディと二人だけの時間を過ごした。ジュディがホワイトハウスにかけた電話の回数が約70回、すべてFBIによって確認されており、なかにはジュディのもう一人の愛人でシカゴ地区を取り仕切っていたマフィアのドン、サム・ジアンカーナの自宅から公然とかけていたものも含まれている。ジュディの後年の回想によると、大統領とマフィアののボスとの共通の愛人と言うユニークな立場にあって彼女が「使者」として実現させたケネディとジアンカーナの直接の会談は10回に及び、その内の一度は所もあろうにホワイトハウスで行われたと言う。モンローとジュディに代表されるケネディ大統領のきわどい女性関係は、当然ながらマフィア首脳たちから詳しく監視され、しばしば秘密のテープレコーダーで録音された。これがマフィアによって脅迫の材料にされたら、ケネディの大統領職の遂行にも重大な影響が出るだけでなく、アメリカ国歌の安全保障にさえも影響が出る可能性が十分にあった。ジャクリーン婦人の従兄でケネディ研究家として知られるジョン・デービスは「200年に及ぶアメリカ大統領政治のパノラマの中で、モンローとジュディを相手にしたケネディの二つの情事は、きわめつきの”危険な関係”であった」と断言している。その後のジュディスは大統領暗殺後、一時ジアンカーナと共に暮らし1972年一回り年下のプロゴルファー、ダン・エグスナーと結婚つい先年1999年9月27日、65歳で亡くなった事は談話室においてご報告した通りです。

利用された情事

モンローの監視、さらにはホワイトハウスの監視と、少なくとも政府直属の機関が直属の上司のトップである大統領の周辺を監視するなどと書いたが、ある意味では、フーバー長官が、アメリカ政府の神経中枢であるホワイトハウスにマフィアの巨頭たちの影響が及ぶのを恐れて、ホワイトハウスを秘密のうちに監視下に置いた。と、好意的に解釈する事は可能である。しかし現実は違っていた。フーバー長官はその在任中「アメリカにはマフィアと言うような犯罪組織は存在しない」と公言していた事は有名な話である。したがって、フーバーが部下達にケネディのホワイトハウスを監視させ、詳細な報告を本部に送らせていた最大の理由は、時の権力者ケネディの個人的な弱みを握り、FBI長官としての自分の地位を半永久的に守るための道具にしたと考えるほかない。ある日FBIの執拗なまでの監視に思い余ったジュディは、ケネディに訴えた。国の最高権力者だから、政府の一組織に過ぎないFBIの「行き過ぎ」など、ツルの一声で終わらせてくれるものと期待したのである。ところが、帰ってきた返事は意外にもそっけないものであった。「気にするな。連中はなにもしやしないよ。放っておけばいい、フーバーが私に仕返しをしているだけなんだ。あの妙ちくりんな野郎め!」というものだったとジュディは回想している。そして1962年3月22日、決定的な瞬間がやってきた。この日の午後1時、フーバーはケネディ大統領からホワイトハウスでの昼食に呼ばれたのである。ケネディはこの会談でフーバーにFBI長官としての「引導」を渡すつもりであったといわれている。若くしてフーバーの上司となったロバートは、自分が先頭に立って大々的に進めている犯罪組織”マフィア”撲滅運動にフーバーが全く協力する姿勢をみせないのに激怒し、兄、大統領に対してフーバーの更迭をしきりに訴えていた。大統領はフーバーを嫌う点では弟にひけをとらなかったものの、政財界、報道界などに隠然たる影響力を持つこの老獪な官僚のクビをうまく切れるかどうか確信が無かった。そして、フーバーが自分の私生活の隅々まで熟知しており、フーバーと政治的に「心中」でもしない限り、FBI長官の座から追い払う事の出来ない事を、まもなくいやというほど知らされる事になるのである。
3月22日の会談はホワイトハウスの二階にあるダイニングルームで昼食をはさんで延々4時間に及んだ。同席したのはただ一人、大統領の”忠臣”オドンネル補佐官であった。会談の中味については後年いろいろな事が書かれているが、詳しい事は何一つ解っていない。ただ一人生存しているオドンネルはずっと後になって、会談が終わったあとケネディが怒りを爆発させ「あの野郎を片つけてしまえ!どうしようもなく目ざわりな野郎だ!」と自分自身に叫んだと回想している。上品なカソリックの家庭に育ち、名門ハーバードを出ているのに、ケネディの乱暴な言葉つかいは知らぬ者とてなかった。フーバー長官も、通常はいつも会談の内容を几帳面なメモとして残す事で有名であったが、この時ばかりは、一切のメモ、記録を残させなかったと言う。しかし、あらゆる状況証拠を総合すると、この席上フーバーはFBIが集めた資料や情報の結果として、ジュディス・キャンベルなろ女性が頻繁にホワイトハウスに電話をかけている事、この女性はマフィアの首領ジアンカーナ、さらにはその右腕と言われるロゼリと情を通じている事、さらにはCIAが暗黒街の首領達を動員してカストロ暗殺計画を進めており、ジアンカーナもその計画に参画している事などを大統領に告げ、早急な対応を要請したと見られる。ジュディとの関係は1960年の時点でフーバーの耳に入っていたが、この会談の席上フーバーが直接大統領に向かって、マフィアの愛人と手を切るように進言したとは思えない。頭の回転が人一倍速いケネディには、きわめて間接的な表現で攻めるほうが効果がある事をこの老獪な情報官僚は熟知していたと思われるからである。この瞬間、ケネディはフーバーの首を挿げ替える事をあきらめた。フーバーは合衆国大統領を相手に一世一代の「脅迫」を試み、まんまと成功したのである。しかしながら、その後明らかになった事実、フーバーが自分自身では存在すら否定していたマフィアの首領達との「黒い交際」の事実が明らかになるに及んで、フーバーがケネディ兄弟の自分に対する憎悪が頂点に達していることを知った彼が、みずからの保身のために(勿論、積極的ではないにしても)何らかの陰謀を知ったと仮定した時点でそれを「黙殺」した可能性を全く否定することが出来ない状況下にあった事は、あくまでも「私の個人的な意見」とお断りした上での状況判断であると言わざるを得ない。事実、フーバーを解任しようと試みた大統領は、彼が長官として仕えた7人の大統領の中でケネディ大統領ただ一人である。そして1972年、77歳のフーバーは現役のFBI長官としてこの世を去った。時の大統領ニクソンは彼の死にたいして「国葬」の礼をもって臨んだのである。