この日の出来事についての、最も詳細な概要記述は何と言っても公式調査報告書「ウオーレン報告書」と思われます。ここでの事件の概要に関する記述は、このウオーレン報告書の記述を参考に最小限に要約して展開してまいります、但し、ウオーレン報告書の概要記述の中にも、後段に展開する結論に有利なような表現が、若干ですが散見されます。このページの目的は、あくまでこの日、合衆国テキサス州ダラスの街で何が起こったかを、中立的に書くことが目的ですので、これらの表現は割愛いたしました。

●テキサス遊説の計画

このテキサス遊説の旅は、1963年6月5日ケネディ大統領、ジョンソン副大統領、コナリー・テキサス州知事の三者が協議して決定された。最初の計画では、テキサス滞在は1日だけとなっていたが、9月になって旅程を1日のばして11月21日午後から11月22日夕刻までとすることが最終的に決定した。当初の一日の旅程では自動車でのパレードは時間的な問題から、有益ではあるが不可能とされていたが、日程の延長の為、実施する事が決定された。この決定を受けて、シークレット・サービスは、各種情報収集の活動を開始した。これらは、ダラスにおける危険分子の記録の収集・昼食会の会場・パレード順路の設定の決定等多岐にわたったが、おおむね次のような結論に達した。1、ダラス周辺には危険な人物、または、潜在的に危険とみられるような行動をとった人物は存在しない。2、昼食会の会場は、ダラストレードセンター(商品館)が、若干警備上の問題があるが適当である。3、パレードの順路にかんしては、ダラス中心部のメイン街が最適であり、商品館へはステモンズ・フリーウエイをつかって到着する。これが最短距離である。
そして、その日はきたのである。

●訪問直前のダラス

9月に入ってダラスの各新聞社は、次々と関連記事を掲載した、それらはパレードの詳細な順路、旅行に関するニュースや推測を読者に提供したが、9月17日のタイムズ・ヘラルド紙の社説に代表されるように、おおむね良好であった。社説はつぎのようにのべている、”ダラス市民は1960年の選挙の時にはケネディに投票しなかったし、1964年にも彼を支持することはないであろう。しかし、我々は心を込めた招待者でありたい。”と。大統領訪問への関心は、スチーブンソン国連代表の事件で一段とかきたてられた。1963年10月24日、ダラスを訪れた国連大使は敵意に満ちたデモ隊に囲まれ、やじられ、ツバを吐き掛けられた。はたして、大統領の時は、と思った市民も少なくはなかった。差し迫った大統領訪問に対する反応、「大統領に対する反感」が到着直前に表面化した。11月21日、警察の指名手配書をまねて作られた匿名のビラがダラスの通りにまかれたのである。それはケネディの正面からと横からの二枚の顔写真の他に、反逆罪で指名手配と題し、大統領の悪口を書き連ねたものだった。そして到着の朝には”ようこ そダラスへ大統領”という見出しで黒枠付の全面広告がモーニング・ニューズ紙に掲載された。”歓迎”の内容も大統領と彼の政権を批判した声明と質問からなっていた。

●到着


空港到着から現場へのパレード

11月22日中部標準時間午前11時40分、ダラス・ラブフィールド空港に到着、雨もやみ曇り空からもれる明るい日差しは、一行を歓迎するかのようであった。ケネディー夫妻は大歓迎陣に応えながら鎖の柵に沿って歩き、約10分後にはパレード用の大統領専用車に向かった。パレードは空港からダラス中心までの人口の少ない地区では、時速25ないし30マイルで進んだ。大統領の命令で専用車は2度停車した。一度は手を振ってほしいとの合図に応えるため、一度はカトリックの尼僧と一団の幼児に話しかける為であった。
中心街では、大群衆が熱狂的に歓迎した、群集があまりにも多かったため、後続車の警護官クリントン・J・ヒルは4度も車を離れ、専用車の後部踏み台にのらなければならなっかった。また他の警護官もたびたび大統領の横にかけより、警備体制に入らざるを得ないような状況であった。

●暗殺

暗殺の瞬間をまとめたニュースフィルム  

中部標準時午後12時30分、大統領を乗せたオープンカーは、時速11マイルでエルム通りを陸橋に向かって進んでいた。その時、ライフル銃から弾丸が飛び出しケネディ大統領に瀕死の重傷をおわせ、同乗のコナリー知事にも重傷をおわせた。そのうちの一発は大統領の頚部を貫通、つぎの一発が大統領の頭蓋骨右側をくだき、これが致命傷となった。コナリー知事は背、右胸、右手首、左股に銃創をおった。

時刻

事件発生の正確な時刻は、次の証言で決定した。大統領の車の後ろに続く警備車に乗った大統領側近デヴィット・パワーズは、オドンネル補佐官に”午後12時30分になった”と指摘した。この時刻は、一行が昼食会場の商品館に到着していなければならない時刻だった。また、ダラス市警の無電発信記録によると、事件の報告が入り、カリー署長が最初の命令を指示した時刻が12時30分と記録されている。

大統領専用車の中で

後部座席の左側に座っていたジャクリーン・ケネディ夫人は、車の左側を向いて沿道の人波に手を振っていた。車の列がエルム通りに折れた直後、オートバイの轟音に似た爆発音と、コナリー知事の叫びが夫人の耳をつんざいた。夫人はすぐ右を向き、夫が妙な表情をしてのどのところに左手を持って行くのを見た。その時、夫人の耳に第二の銃声が聞こえた、と見る間に、夫人の横で大統領の頭蓋骨が弾の衝撃で裂け開くのを見た。コナリー知事は、銃声がライフルの発射音と解った瞬間”暗殺計画だ”と言う考えが頭にひらめいたと証言している。
運転助手席にいたケラーマン護衛官は、大統領の”あっ、やられた”と言う叫びを聞き、さらに両手を自分の首に持っていくのが見えた、と証言している。同警護官はすぐにグリーア運転手に、”ここを離れろ、撃たれたんだ。”と命じながら、マイクをつかみ先導車にも”撃たれた、すぐ病院へ直行せよ。”と指示をあたえた。専用車の補助席左側にいたコナりー知事夫人は、2発目の銃声を聞いた時、夫を自分のひざに引き倒した。倒れ掛かりながら自分の胸が血に染まっていくのを見て、夫は死ぬと思ったと陳述している。知事はこの時”いかん、いかん、神よ、私達は皆殺しになるんだ。”と叫んだ。コナリー夫人は、死んだと思った夫がかすかに動くのを感じて”大丈夫よ、そっとしていて。”と叫んだ。コナリー知事が大統領に打ち込まれた弾音を聞いたのは、妻の膝の上であった。この瞬間、コナリー夫妻は車内に脳漿が飛び散るのを見た。夫妻の証言では、ケラーマンが非常措置の指示を与え、車がスピードを上げたのはこのあとであった。

護衛官(シークレットサービス)の反応

大統領専用車の直後を走っていた追尾車の、前部左側の踏み台にいたクリントン・ヒル護衛官は、車の列がヒューストン通りから曲がった直後、エルム通り南側南側に数人の人々が立っているのを観察していた。彼は、エルム通りに入った直後の車のスピードは、12ないし15マイルであり、専用車との間隔は約5フィートであった、と証言している。ヒルは爆竹の爆発のような音を右手後方に聞いている。彼は直ちに右を振り向きざま専用車で大統領が首をおさえ、前のめりになり左側に倒れたのを見た。ヒルは車を飛び降り専用車に走った。専用車に手がとどくとほぼ同時に、彼は第2の音を聞いている。これが大統領の頭部の一部を吹き飛ばしたのだったのだが、それは、彼によれば第一弾から約5秒後だった。ヒルが専用車の後部左側のステップに飛び乗り、ドアの取っ手に手をかけた瞬間、専用車は急にスピードを上げた、ヒルはステップから足を滑らせた。彼は三、四歩走り再び専用車によじ登った。最初に取っ手に手をかけてから、車に乗り込むまでの事をヒルは以下の様に思い出している。
「ケネディ夫人は、座席から立ちあがっており、私が車に飛び乗ろうとしているのに気が付いたとき、車の後部右側のバンパーか尾翼から落ちる何かを掴もうとしている様であった。彼女は私のほうを向いた。私は彼女をつかまえ、後ろの座席に彼女を押し戻し、その座席の上にはいつくばってそこに横になった。」後続車からの目撃者パワーズは、もしヒルが夫人を押し戻さなければ、彼女は車外に放り出されていただろう。と証言している。大統領のパレードに参加した護衛官達は病院に急行する間、全員その護衛位置にとどまっていた、事件現場にとどまっていた者はなく、また、事件発生直後、テキサス教科書倉庫ビルに入った者はいなかった、最初に現場に戻った護衛官はフォレスト・ソレルズであり、時間は事件発生後20ないし25分後であった。

●パークランド・メモリアル病院

大統領の車の列は、現場から4マイル離れたパークランド病院に急行した。市警の無電受信記録は”22日午後12時30分、カリー署長より次の指示あり。病院、パークランド病院に行け。医者に手術の準備をさせるよう、大統領が撃たれたようだ。パークランド病院に準備を・・”と記録。司令室はこれに対し”病院に通知ずみ”と応えている。パークランド病院ではこの通知を受け、救急病棟のスタッフが緊急体制をとった、大統領が病院に急行している間に12名の医者が救急病棟にそろった。

大統領の手当

大統領を見た最初の医者は、外科医のチャールズ・カリコ博士である。この時の所見は、「大統領は蒼白というか灰色といってよいような肌の色をして、ゆっくりとした痙攣のような、乱れた苦しそうな呼吸をしていた。大統領は動けなかった。目は瞳孔が開き光りにも反応しなかったが、心臓の鼓動とおもえる胸音がわずかに観察された。」この所見から博士は大統領はまだ生きていると判断して救命処置をした。それは首の前部下方に認めた小さな銃創を切開してチューブを通し、呼吸を楽にさせる処置であった。また大統領の胸腔の中に、空気と血液が入り込んでいるのを認め排出の為、管を胸にいれて排出した。また、頭部からの出血をとめるためにあらゆる処置が施された。その間、傷の調査をしたウイリアム・クラーク博士は、頭部右側に大きなパックリと割れた致命的な傷があり、ここから組織が露出して相当量の出血を認めている。これら懸命の救命処置にもかかわらず、神経にも心臓にも何の反応も回復できず、医者達は大統領を生き返らせることはもはや不可能と判断した。1963年11月22日午後1時クラーク博士は「大統領は逝去なさいました」と告げ た。
大統領の遺体は、その日のうちにワシントンに移送され、メリーランドのベセスダ海軍病院において病理解剖にふされた。

大統領の死亡をニュース速報で報道する、ウオルター・クロンカイト  

●警察官チピット殺害事件

1時15分頃、ダラス・オーククリフ地区をパトロールしていた警察官J・D・チピットは、東10番通りで、さきほどらい警察無線で流されている大統領暗殺容疑者の人相手配に酷似した人物を発見、その人物に車を寄せていた。その人物はパトロールカーに歩み寄り、窓ごしにチピットと言葉をかわした、ドアを開けて彼に近ずこうとしたチピットにたいして男は、短銃をひきぬき数発発砲、4発が命中して彼は即死した、発砲者は現場を離れると、パットン通りからジェファーソン通りへと走り去った。この間の足取りにかんしては数人の目撃証人によって確認されている。最後に目撃したジョニー・ブルーワーは、彼が映画館テキサス劇場に切符を買わずに入っていくのを見て警察に人相とともに通報した。1時29分警察の無線は、チピット殺害事件と大統領暗殺事件の容疑者の人相手配がそっくりであることを伝えた。1時45分テキサス劇場に入ったとの情報により、劇場は包囲され、中に入ったマクドナルド巡査ほか数名の警官は、ブルーワーの指摘により、数分間の格闘の 後、容疑者を逮捕して警察本部に連行した、およそ2時頃であった。

警察官チピット殺害現場

●オズワルド殺害

連行された男は、リー・ハーベイ・オズワルドと名乗った、22日から23日にかけてダラス市警、シークレットサービス、FBIの尋問をうけたが、警官殺し・大統領殺害の容疑事実に関しては一貫して否認し続けた。しかしこの間、オズワルドには弁護士は同席していなかった。取り調べ中の移動等で廊下に現れたオズワルドは、何度か記者団の質問に答えている。警察では流言が流れる事を心配して、23日午前12時に警察の講堂で正式な記者会見を行った。講堂には全米からダラスに派遣された記者がつめかけた、彼らは質問とフラッシュをオズワルドに浴びせた。この中に、52歳になるクラブ経営者ジヤック・ルービーがいた。
24日朝、市警の留置場から1マイル離れた郡刑務所にオズワルドを移送する手はずがととのえられた。午前11時20分頃、オズワルドは両脇と後ろから刑事に付き添われ地下の房から出てきた。彼は2,3歩車に向かって歩き始めた、その時突然、記者が集まっているカメラの右手から一人の男が突進してきた。男は短銃を持ちテレビを通じて数百万の人々が注視する中でオズワルドを撃った、オズワルドはたちまち意識を失い、パークランド病院に移送されたが、意識を回復しないまま、午後1時7分死亡した。オズワルドを殺した男はジャック・ルービーであった。

オズワルド殺害実況音声 
オズワルド殺害中継映像
オズワルド記者会見の映像