リー・ハーベイ・オズワルドを取り巻く人物像を吟味すればするほど「まともな人間」との付き合いはなかったのかしらん、と思えるほど多士済済な人物像が浮かび上がってくる。その中でも特に異彩を放つ人物がいる。「デヴィット・ウイリアム・フェリー」特異な風貌と経歴の持ち主であるフェリーをして、一説には「暗殺計画の現場指揮者」とも擬せられる人物である。今回はこのフェリーに焦点を当てる。

デヴィット・フェリー登場

デヴィット・フェリーの名前を世界に知らしめたのはもちろんニューオリンズ地方検事「ジム・ギャリソン」その人であることはほとんどの方がご存知でしょう。事件当時ニューオリンズ地方検事であったジム・ギャリソンは、暗殺犯「オズワルド」の名前を報道で知った時、職務上調査に乗り出した。オズワルドの名前はニューオリンズでは有名であったからである。暗殺事件のわずか三ヶ月前オズワルドは、カナル街で亡命キューバ人グループの団体の一つキューバ学生革命評議会(略称 DRE)のニューオリンズ地区代表であったカルロス・ブリンギエール(写真)とひと悶着起こし、テレビでも報道された騒動の片方の主役であったからである。(カナル街事件の項参照) ギャリソンの指示はオズワルドがニューオリンズに住んでいた夏の時期にオズワルドと交遊のあった人物を探し出し、一応調査するようにといった極めて事務的な指示であったと言う。そしてこの調査によって浮かびあがった一人の人物こそデヴィット・フェリーそのひとであった。しかも、フェリーは暗殺事件直後にニューオリンズを出発してテキサスに向かったと言う情報も得られた。検事局の召還に応じ出頭したフェリーは明らかに落ち着きを欠き、不安そうな様子であった。質問に対する答えは一貫性に欠け、オズワルドなどという人物は一切知らないし、会ったことも無いと主張した、さらに22日の行動は認めたものの、何年に一度というひどい雷雨の最中、暗殺事件のわずか一時間後に、はるか300キロも離れたテキサスに何しに行ったのかとの質問には「アイススケートをしに行った」と話したのである。翌日はガルベストンに向かい日曜日には「雁撃ち」を楽しんだと言う、しかし彼はその時に銃は持っていなかった。まさに奇妙な話の連続であった。ただ他に暗殺事件とは直接関連付けるような事実も無かったが、この妙な旅行についてはさらに調べる必要があると感じたギャリソンは調書をとり留置して後の捜査をFBIにゆだねたのである。

フェリーと言う男

デヴィット・フェリーは1918年3月28日オハイオ州クリーブランドに生まれた。若きフェリーは頭脳明晰で評判の人物であった。彼は聖職者の道を選びローマンカソリックのセミナリオに通っていたが「全身脱毛症」という奇病に悩まされ、さらには同性愛的資質が顕著になるにつれ「聖職者」の道を断たれたと言われる。その後ニューオリンズに移り住んだフェリーは民間航空会社のパイロットとして勤めていたが彼の「同性愛的資質」によって解雇されたりして不安定な生活であったようである、そんなことからかニューオリンズのマフィアの大ボス、カルロス・マルセロの配下であった事もあった。マルセロがロバート・ケネディの「勇み足」によって国外追放処分を受けたとき、追放先のグァテマラからマルセロが戻る飛行機のパイロットがフェリーであったとも言われている。兎に角、ニューオリンズでは、その奇病から来る風貌は有名で、ギャリソンの言葉を借りると「残忍そうな笑いを浮かべてみつめる顔は、ハロウィーンの気味の悪い仮面のようだった。舞台用の眉墨で描かれた眉は左右の高さがふぞろいだったし、自家製のぼさぼさの赤毛のカツラが傾いていた。」と言うことになるのである。一度会ったら忘れられない風貌であったのであろう。そんなフェリーは、冒険好きの腕の良いパイロツトであるという評判だった。彼はどんなに小さな滑走路でも離着陸できるという評判であったし、その他にも1961年失敗に終わったCIAによるキューバのピツグズ湾侵攻にも彼が関わつていたこと、その関わりからビッグス湾事件の失敗はケネディの責任で「あんな奴、殺されてしまえば良い」と何度か口走っていたこと、反カストロ活動をしていたこと、退役軍人の集まりでしばしば愛国心や共産主義打倒をテーマとするスピーチをしていたこと等など。デヴィット・フェリーという名前はニューオーリンズではよく知られていたのである。

ジャック・マーチンの証言

1966年事件の再調査を開始したギャリソンは三年前の足跡を慎重に歩みはじめる。ギャリソンの言葉を借りれば「トラの尻尾をいじくり始めた」のである。最初に着目したのがジャック・マーチン(右写真)と言う人物であった。彼は当時ニューオリンズの私立探偵ガイ・バニスター(左写真)の事務所に親しく出入りする私立探偵であったが暗殺事件の夜ガイ・バニスターに(彼に言わせると)何の理由も無く拳銃で殴られた、その腹いせにか「フェリーが事件当日テキサスに向かった」と話していた本人である。再びマーチンと話すことの出来たギャリソンは重大な証言を得る事となる。その時の会話を著書「On the Trail of the Assassins」(ケネディ暗殺犯を追え)から転載する。かなりの長文となるが我慢して読んで頂きたい、ギャリソンがまさにその半生をかけて追い求めた「真実への挑戦」のプロローグとなるものであるから。
『マーチンに事件当夜のことを聞き出した時のことだった。「事務所に戻ると、バニスターがなんだかんだと不平を言い出したんだ、かなり酔っていたし、ひどく機嫌が悪かったんだね。で、だしぬけに、私が奴の個人的なファイルを見ただろうなんて言い出したんだ。私は奴の個人的なものになど手を触れたことはないんだ、絶対に。私もかっとなった」彼はそこで長いこと躊躇していた。「つづけてくれ、ジャック」と私はおだやかに言った。「私も我慢ができなかったんだ」不当な目に会わされたことを思い出して顔を紅潮させながら彼はつづけた。「そんな口のきき方はしないほうがいいぞと言ってやった。夏のあいだに事務所にやって来た連中のことを忘れたわけじゃない、とも言ってやった。そのときだよ、奴が私を殴ったのは。すばやかったね、あのでかいマグナムを抜くと、そいつで私の側頭部を殴りやがったんだ」「その年の夏に事務所に来た連中を覚えているというだけの理由でかね?」私は尋ねた。「そうですよ。それだけで、奴は気がふれたようになった」「で、夏のあいだに事務所に来た連中というのは?」私は静かにうながした。「いっぱいいたね。サーカスのようだった。キューバ人がおおぜいやって来たよ。来ては出ていき、来ては出ていき……私には誰も彼も同じように見えたもんだが」
誰かがこんなことを言ったことがある、「人に見られずに何ことかしたいと思っても、誰にも見られていないことを入念にたしかめたとしても、かならず誰かが樫の木の下に座っているものだ」と。そのときはそうと気づかれなかったものの、バニスターの事務所という奇妙な場所で、ジャック・マーチンはその樫の木の下に座った男になってしまったのだ。
彼は深く息を吸い込んで、話をつづけた。「他の連中も何人もいたね。デイヴ・フエリーも居た。彼のことはもう知ってますね?」「彼はたびたび顔を見せていたかい?」「たびたびなんてもんじゃない、あそこに住んでいたようなもんですよ」
そこでマーチンは黙ってしまった。それ以上しやべるつもりのないことは、目を見れば解った。しかし、このまま引き下がるわけにいかない「それから、リー・ハーヴェイ・オズワルドもだね」ときいた。彼は唾を飲み込み、うなずいた。肩の荷を降ろしてほつとしたようだった。「ええ、彼も居ました。時々ドアを閉めてガイ・バニスターと話をしていたし、デイヴ・フエリーと雑談をしていることもあったが、とにかく彼も来ていました」「そうやって、ガイ・バニスターは何をしていたんだい」「その連中を動かしていたんですよ」「私立探偵の仕事のほうは?」「依頼はあまりなかった。たまにあったときには私が担当しました。私はそのためにいた訳だから」「ところでジャック」と私は言った。「率直なところ、バニスターの事務所では何がやられていたんだ?」彼は私に手を上げてみせ、決然として、「それには答えられない」と言った。「その点は勘弁してください」そして、ふいに立ち上がると「もう帰りますよ」と言った。「まあ待てよ、ジャック。バニスターの事務所で起こっていたことに立ち人るのが、なんだってそれほど問題なんだ?」「何が問題か、だって?」と彼が言った。「何が問題か?」彼は信じられないというようにもう一度くりかえした。「そんなことをしたら連邦政府が追ってくるんだ。もっと具体的に言ったほうがいいかい?私は殺されかねないんだよ。そして、あんたもね」彼はくるりと向きを変え「もう帰りますよ」と小声で言った。ドアに向かう彼の足もとがふらついていた。』
こうしてギャリソンは、大統領暗殺事件という悪魔の住みつく迷宮に入り込んで行く。

しばらくフェリーから離れよう。

オズワルドを救え

暗殺事件の翌日、一本の電話が弁護士ディーン・アンドルーズの事務所にかかってきた、電話の主はクレイ・バートランド。内容はダラスに飛んで「オズワルド」を弁護してもらいたい、と言う内容であった。アンドルーズ弁護士にとってこのクレイ・バートランドと言う人物からの弁護依頼は今回が初めてではなかった、法律に触れるようなちょっとした事件を起こした若い友人達を助けるために時々弁護の依頼を受けた実績があったという。1963年の夏にはバートランドから電話がかかりマリーナ・オズワルドという女性の公民権の問題やオズワルドの不名誉除隊にかんしての依頼でアンドルーズ自身マリーナやオズワルドともアンドルーズの事務所で会っている。このような常連客の依頼であったが、自分の危険察知感覚から仕事は断った。と言うのである、この間の事情は事件後のFBIの事情聴取に詳しく述べられているが、1964年7月ウオーレン委員会に召喚された時のアンドルーズの証言は大きく変化する、リーベラーの質問に対して最後には「バートランドからの弁護依頼は、自分が勝手に想像しただけのものである」とまで変わってしまう、そしてこれがウオーレン委員会の公式見解となる。以降ディーン・アンドルーズは事「クレイ・バートランド」に関しては一切の口を閉ざしてしまう。オズワルドを救うべく、弁護士をつける動きが本当にあったのか、証言はどちらが真実なのか。そしてその依頼をしたと言われる「クレイ・バートランド」なる人物はいったい何者なのか。

キャンプ街544番地

今になってみればオズワルドが1963年4月にニューオリンズに現れ9月にメキシコへ立つまでの間、この町でしたことといえば、ライリー社と言う名前の「コーヒー会社」に就職したことと、町に出て「キューバから手を引け」というニューオリンズの町には全くそぐわない表題のチラシを自費で作成して配ったこと、そして亡命キューバ人とトラブルを起こして市民の注目を集めた事だけであった。オズワルドは何度か町に出てアルバイトを雇い、チラシを撒いた。印刷したそのチラシの連絡欄は空欄になっておりその都度スタンプで氏名・住所を書き込むようになっていた。氏名は本名の場合だったり「ヒデル」の偽名だったりしたし、住所といえばオズワルドのニューオリンズにおける住所「マガジン街4907番地」であったり「私書箱30016」であったりした。(マガジン街の番地の違いや私書箱番号の違いなど興味深い問題を包含しているのであるが、ここでは触れない)各所で撒いたチラシのうちの8月9日カナル街で配ったチラシの住所が「キャンプ街544番地」であった。キャンプ街544番地は表示こそ違えガイ・バニスターの事務所と同じ建物である。
それでは、マーチンが「その点は勘弁してください」と言ったガイ・バニスターの事務所「キャンプ街544番地」ではいったい何が行われていたのであろう。バニスターは探偵事務所を開いてはいたが「反カストロ」亡命キューバ人組織の活動家であった、フェリーもまたキューバ革命戦線のリーダーの一人であったと言う。そして、「キャンプ街544番地」はダラス―ニューオリンズ―マイアミを結ぶ補給路の一部をなすものであった。補給される物資とはカストロキューバに対抗して使用される武器および弾薬であった。すなはち「キャンプ街544番地」は反カストロ組織のニューオリンズにおける前線基地であったのである。こうして「共産主義者でありカストロ擁護の立場をとる」オズワルドと「反カストロ組織のリーダーであり反共主義者」のフェリーやバニスターの奇妙な糸が結びついたのである。調査を進めていくうちオズワルドの弁護を依頼した「クレイ・バートランド」なる人物は「クレイ・ショー」と言うニューオリンズの名士である可能性がでてきた。そしてこのクレイ・ショーはたびたびバニスターの事務所を訪れている事実も明るみに出る。クレイ・ショーを加えた四人の人物が揃ったことになる、まさに役者が揃ったのである。オズワルドがニューオリンズに来た本当の理由はなにか、オズワルドとフェリーの関係は、その点を解明すればオズワルドの背後が見えてくる可能性は非常に大きかった。とすればどこを追求するのか、バニスターは1964年すでに死亡していたし、直接クレイ・ショーに当たることもバートランド=ショーの確証がいまだ得られていない。残るのは「デヴィット・フェリー」以外は考えられなかったのである。

フェリー再び

ギャリソンはフェリーに対する3年前(FBIに移管した)の疑問を、今度は自分自身で調べ始める。事件直後ニューオリンズをたってヒューストンへ行った理由を「アイススケートをしに行った」と答えた事について調べると、フェリーはヒューストンのアイススケート場で終始公衆電話の傍らで電話を受けたり、かけたりしていて、一度もリンクに立たなかったと言う事実をつかむ。さらにフェリーは土曜の夜ガルベストンに向かったと言っていたのであるが、フェリーがガルベストンに滞在している時間帯にジャック・ルビーが数回ガルベストンに長距離電話をかけていた事実も明るみに出たのである。しかしながらこれらの事実は興味ある話ではあるが特に「大統領暗殺事件」とは直接関わりの無い話であり、フェリーとオズワルドが完全に結びつかなければ無意味なのである、オズワルドとフェリーは知り合いであったのか。これを証明するのは今現在ジャック・マーチンの証言だけなのである。フェリーはオズワルドとの関連を頑強に否定する。「リー・ハーヴェイ・オズワルドだか誰だか知らんが、間違いなく記録にも記憶にもなく、全く知らない」と。

ルイジアナ州クリントン

ルイジアナ州クリントン。この州最南部に位置する小さな村は、よほどの地図でないと出ていないような僻村に過ぎないがギャリソンにとって極めて重要な町となった。1963年夏はこの町にとってまさに何十年に一度の記憶にの残る時であった、連邦政府の支援のもと、この地方の大掛かりな選挙人登録運動が展開されていたのである。黒人の公民権意識の向上を目的としたこの運動は南部各州でさまざまな騒動を引き起こしていた。この僻村も例外ではなく、黒人達は黒人の新規登録者を白人が妨害しないよう、白人は白人で”よそ者”の煽動者が入り込み黒人達をあおりたてないように目を光らせていた。まさにクリントンに住む成人のほとんどが日の出から日の入りまで選挙人登録事務所の周辺を歩き回っていたのである。そこに、この地方には似つかない黒塗りの大型リムジンで三人の男が乗りつけたのである。後にこの内の一人が「大統領暗殺犯」としてテレビの画面に現れた時に、ほとんどの人がこの男のことを記憶していた。と同時に同行していた二人の人物のことも。村人の証言は異口同音に一人は「正気の沙汰とは思えないカツラをかぶり、眉は描いたものであった」と、そしてもう一人は「白髪まじりの紳士で」誰の記憶でも「男は礼儀正しく、リムジンの傍らを村人が通ると、必ず会釈して挨拶をしていた」というものであった。この三人を黒人支援のために連邦政府から派遣されたチームではと思った村の保安官は車の番号を控え、後に州警察に照会したところ、車の所有者は「インターナショナル・トレード・マート社」の物であったと言う。トレード・マート社はクレイ・ショーの経営する会社である。

市民航空パトロール

Civil air Patrol(CAP)。日本ではこのような組織は知らないのでどんな組織かは解らないがボーイスカウトの航空版といった感じなのであろうか。このCAPにフェリーは一時所属していた、航空機操縦の技能を買われてと思うが「隊長」として所属していたのである.。このことはフェリー自身も認めている。オズワルドも実はこの組織に所属していた時期があった、この事を突きつけられたフェリーは時期的にずれていたのか、もしくは偶然出会った程度かもしれず、全く記憶に無いとFBIの尋問に答えている。下院暗殺問題調査委員会もこのことに着目してフェリーとオズワルドの接点を調査している。数々の証言から「その可能性の高いことは証明できたが」証拠としての物が無かったのである。ところが1993年になって決定的証拠とも言える一枚の写真(右上)が発見された。CAPの活動中であろうか、野外で食事を作っているところの写真である、紛れも無くオズワルドとフェリーが一団の中に居るのである。さらにこの二人にクレイ・ショーも加わった三人が同席する写真(右下・左から二人目がフェリー、中央右に立つ人物がクレイ・ショー、前にしゃがんでメキシカン帽をかぶるのがオズワルドとされている)までもが発見される。こうしてオズワルドとフェリーの関係に関して長い間繰り広げられてきた論争に決着がつくことになる。

偶然か作為か

ロシア帰りの”共産主義者”と”反共の闘士”が同じ事務所に出入りし、しかも二人は以前から面識もあった。「キューバから手を引け」とカストロ擁護を訴えるチラシの連絡先が「キューバ奪還」を目指す亡命キューバ人のたむろする場所であり、突然ダラスから飛び込んできたオズワルドがすぐさま「キャンプ街544番地」を知り得たこと。この摩訶不思議な構図を単なる「偶然」と片付けることの出来る人がはたして居るのであろうか。そこには間違いなく何らかの意図が隠されていると考えることの方が自然である。ではその「隠された意図」とは何であろうか。以下、私の想像の域を脱しないのであるが、極めて常識的な解釈をしてみる。「オズワルドのとった行動は自分の意志ではなく何らかの”指示”に基づいた行動であること、さらにオズワルドの行動を監視するために(たぶん同じ組織なり個人の指示により)積極的に彼に近づいていった人物が存在し、その人物にオズワルドとは面識のあった人物が選ばれた。」と考えれば自然であり納得いくことであると思うのだが。こうして見ると俄然「デヴィット・フェリー」の存在が注目されることとなる、オズワルドに対する隠された意図を知りえる立場の人物と言えるのである。さらに次項の証拠から、単にオズワルドに関してのみではなく、より広範囲な「構図」を見渡せる立場に居たのではないかと想像されるようになってくる。

フェリーとルビーを結ぶ線

「委員会証拠番号2350号」(右上写真・拡大)はデヴィット・フェリーの電話通話記録である。その通話先はまさに全米各地広がっている事に驚かされるがその通話記録の中にイリノイ州シカゴの電話番号が出てくる。番号は「WH4−4970」実はこの番号はウオーレン報告書付帯資料の数箇所に出てくる番号である。このフェリーの通話記録のほかにジャック・ルビーの通話記録、ローレンス・メイヤーズ通話記録等などである。この番号の持ち主は「証拠番号2350号」によると A・エイシー(Asie)となっている。このエイシーという名前の女性は「委員会証拠番号2266号」(右下写真・拡大)のなかに、ミス・エイシーの名前でも登場する(綴りはちがっているが)。その資料に書かれたFBI報告によると、彼女はイリノイ州シカゴの「ジーン・アーシー(Aase)」となっている。1963年12月4日付のそのFBI報告には、彼女が「口ーレンス・メイヤーズ」に伴ってテキサス州ダラスヘ商用で出かけたことが記されている。二人がダラスに到着したのは1963年11月20日、大統領暗殺事件の2日前である。二人はラマダ・モーテルにチェック・インしてそこで一泊し、11月21日にはカバナ・モーテルに移った。FBI報告によれば、アーシーは11月21日夜にメイヤーズに連れられてカルーセル・クラブに行き、ジャック・ルビーに紹介された。「三人は入口に近いテーブルに着いておしゃべりをした」と記されている。現在ではこの女性の名は、メイヤーズの恋人「ジーン・ウエスト」と言う名前であることが判明している。尚、先ほどのカバナ・モーテルの名前にはご記憶の方も多いと思いますが事件直前に、翌日の事件現場に登場する数々の人物が宿泊、もしくは訪問した実績?のある場所なのです。(一般的疑問の項参照)こうしてフィリーとルビーは「WH4−4970」の電話番号で見事に繋がるのである。これまた「偶然」と呼ぶにはチョット無理があると思うのが常識だと思うのだが。

フェリーの死

1967年2月17日ニューオリンズ・ステーツ・アイテム紙に一つの特ダネが掲載された「地方検事 JFK暗殺計画を本格調査・秘密の出張に巨額の経費」と題したすっぱ抜き記事である。こうして極秘裏に進んでいた調査は万人の知るところとなる、記事は詳細をきわめ捜査員しか知りえない内容までが掲載されており、ギャリソン達には何処からかリークされた記事にしか考えられない内容であった、そのうちにはフェリーが捜査対象の一人であることも漏れてしまった。フェリーの動揺は想像を絶するものであった、「もう、私は死んだも同然だ。本当なんだ私は死んだも同然なんですよ」これがフェリーの最後の言葉になった。1967年2月22日ルイジアナ・アベニュー・パークウエイのフェリーのアパートで彼は「二通の遺書」を残して死体となって発見された。検視官の結論は脳内出血による「自然死」である、ギャリソンは他殺を確信し調査したが確証を得ることはできなかった。フェリーが検事局の捜査対象者であることが明るみに出た後わずか5日後の”死”であった。同じ日、同じ頃。フロリダ州マイアミで一人の亡命キューバ人が心臓を撃ち抜かれ、斧で頭を割られた変死体となって発見される、男の名前はエラディオ・デル・ヴァレ(左写真)。反カストロ運動のメンバーでフェリーとも親しく、仕事を共にしたり提供した事もある人物である。こうしてフェリーを突破口とした事件
調査は挫折する。その後ギャリソン達は、次に全容を知りえたであろう人物「クレイ・ショー」を起訴していく(クレイ・ショー裁判の項)。
それにしてもデヴィット・ウイリアム・フェリーは本当に事件の中心人物であったのであろうか。もちろん彼の死によって永遠の謎になってしまった訳ではあるが、すくなくとも現在まで取りざたされている数多くの「疑惑の人物達」の中にあっては(各種の証拠によって)最も事件の概要を知っていた可能性の高かった人物であることに間違いはなさそうである。しかし過去、事件研究の過程のなかで、フェリーのことはあまり重要視されていないのが現実である。それは、ギャリソンに対する個人的批判や「クレイ・ショー裁判」そのものに対する批判が原因になっているし、加えて「証言者の信頼性」の問題であった。証言内容の信頼性とはまったく関係の無い証言者の個人的性癖や言動によってその信頼性が忖度されてきたのである。オズワルドとフェリーの関係を証言したチャールズ・スパイゼル(右上写真)やガイ・バニスターの秘書であったデルフィン・ロバーツ(右下写真)などがその好例であろう。ちなみにスパイゼルは、自分の娘が大学入学前と卒業後では別人で、今の娘は偽者ではないかと疑い、指紋を比較して確認したという逸話を持っていた。そのことだけを理由に「彼の証言は全く信用できない」と評価されたのである。

思いはさまざまでしょうが皆さんはどのようにお感じになりますか?