現在、ケネディ暗殺事件の研究者やアメリカ国民のなかで、ケネディ暗殺にCIAが組織として、もしくは個人として、程度の差こそあれ何らかの形で関与していたであろう事を、完全に否定する人物はいないと思われる。国家機関がその機関の統率者を殺害することに関わりを持つ事、すなわち、クーデターである。

CIAの憎悪

ケネディ大統領はCIAを壊滅させようとしていた事は様々な資料からあきらかである。ピッグス湾の大失態をまざまざと見せ付けられたケネディは、当時の政府高官に彼がCIAを粉々に引き千切って風に飛ばしてやりたいともらしている。ケネディはCIAを部分修正したり改革を提案するといった生ぬるい物ではなく、CIA組織そのものの徹底的解体をめざしていた。ケネディとCIAの間に有った憎悪は、ピッグス湾侵攻作戦の失敗後、修復不能なところに達していた。ケネディは当時キューバ進攻に合衆国軍隊を参加させないと公言していた。CIAはこの言葉を聞いていたものの、それはあくまで国民を安心させる表向きのもので、いざとなれば大統領が軍隊を派遣するであろうと期待していた。CIAは、ビックス湾事件については作戦の失敗の後、CIAとその指導者を懲罰する段階になって、大統領はやっと決然とした態度になった、と信じた。CIAにとって、この上懲罰を受け、彼らにとって不当な苦しみを味わうのでは、まるで救いがなかったのだ。事件から12年後、ハワード・ハントはその著書のなかで次の様に書いてい る。”1949年の中国共産化以来、アメリカで訓練を受けたキューバ人部隊(2506部隊)によるビックス湾侵攻作戦が1961年4月に失敗した時ほど、アメリカとその同盟国に強い衝撃を与えた事はなかった。この屈辱から、ベルリンの壁、ミサイル危機、ラテン・アメリカ及びアフリカにおけるゲリラ戦、そしてドミニカ共和国への軍事介入へと発展していったのだ。ビックス湾上陸拠点でのカストロの勝利によって、アメリカおよび自由主義圏の同盟国をおびやかす底なしのパンドラの箱を開ける結果になったのだ。これらの血なまぐさい破壊的出来事は、カストロさえ倒していれば決して起こらなかったはずである。我々政府は、断固とした態度をとる代わりに、次から次に重大な過ちを重ね、ついに2506部隊を壊滅させてしまった。ケネディ政権は、カストロに屈し。英雄ホセ・マルティの島(キューバの事)における彼の権力を強める口実をあたえてしまったが、彼らはこの後、こっそりと身を潜めたまま、キューバ問題が自然消滅するのを、待ち望んだのである。”ハントは、ケネディ大統領が、故意にキューバ愛国の英雄達を裏切り、彼らが絶望的に援軍を求めた時、沖に停泊していた アメリカ海軍の航空母艦は救いの手を差し伸べようとせず、キューバの愛国者達は次々に殺され、捕らわれの身になったと結論した。

ビックス湾事件映像

ビックス湾事件以来、数ヶ月間、CIAと大統領との間には、ぎくしゃくとした冷戦状態が続いていた。その間、CIAは「マングース作戦」と呼ばれる奇怪なカストロ打倒計画を進めていた。計画は毒殺に始まって、爆弾攻撃、ライフル攻撃、女性暗殺者の接近と多岐にわたった、マングース作戦には、暗殺計画のほかにキューバに対するいくつもの小規模な奇襲作戦も含まれていた。当初からケネディは、マグース作戦を秘密計画として控えめに進めなければならないと主張していた。彼は、表向きはカストロ暗殺計画に反対していたものの、内実は大統領も司法長官も、カストロが邪魔者であることをはっきり認め、カストロが暗殺されればホワイトハウスも感謝するであろうとCIAは判断していた。ケネディは、マングース作戦がもっとも熱狂的な亡命キューバ人の活動家を集めて、監視の下に統制するにはおあつらえむきの手段と考えていた。
1961年10月、CIAはキューバにおいて破壊工作を進める為、10組のゲリラ攻撃チームを派遣することを決定した、ロバート・ケネディが、CIAのこの行動を知った頃までに、すでに3組の攻撃チームが派遣されていたが、CIAは司法長官の正式承認をえていなかったのである。ロバート・ケネディはのちにこれを思い起こして”激怒した”と語っている。ホワイトハウスはCIAの工作を知るや、ただちに対応策を決定するとともに断固とした態度を示している。10月30日アメリカが対ソ交渉に入っていた為、その間すべての破壊工作及び軍事作戦が中止された。その後まもなくマングース作戦も放棄されることとなった。CIAの行動派にとって米ソのデタントは、絶対に必要だと信じていた軍事行動の妨げになるものであった。CIAは、大統領の指令にもかかわらず。対キューバ軍事作戦とカストロ暗殺計画を続行した、ロバート・ケネディは、これらCIAの行動を監視しようとしたが、組織犯罪や、たえまなく起こる人種問題をはじめ国内問題に対処するのは司法長官としての彼の責任であり、こちらの方に注意を向けなければならなかった。彼は、エドワード・ランズデール将軍 をフロリダに派遣してキューバに対する軍事作戦の中止の決定が厳然なものである、とCIAに念をおした。それでもなおCIAが指揮する軍事行動はやむことはなかった為、ついに、キューバ亡命者のための軍事訓練基地をFBIが襲撃する結果になった。FBI捜査官は理論上司法長官の支配下にあり、司法長官が絶対的管轄権を持っていたが、いつのまにかCIA配下のキュバ人と武装対立することになってしまった。二つの対立するグループ、CIAとホワイトハウスは互いに最終的解決がもうすぐ訪れることを固く信じ、時のくるのを待った。大統領は1964年の大統領選挙でかたがつくと信じていた。彼が再選されれば、1960年の選挙民から与えられた時よりもっと大きな支持を受けて、うまくいけば、FBI長官のエドガー・フーバーに辞任を求め、まったく新しい国際情報機関を作り上げることが思いのままに出来るかもしれない。1963年当時、CIA内部でもこのことは広く知られており、それがCIAの将来にとって何を意味するのかいろいろ憶測されていた。
フレッチャー・プラウテイーは、元空軍大佐である。(映画JFKではX大佐として登場)彼は、国防総省の指令体系内でCIAのすべての軍事行動を監督する立場にいた人物である。彼によれば、ケネディはCIAを解体しようと決意した事を認めている、その第一歩は「ダレスカベル、ビッセル」の三巨頭の追放解任であった、プラウデイーは再選後にCIAを解体する作業がホワイトハウスで進められている事をCIAも承知しており、それを規定の方針として受け止めていたと信じている。しかしケネディは再選を待つことなく、この三巨頭の解任に踏み切った。そして次のステップとしてCIAの不法行為を取り調べる為にキューバ研究グループとなずけた委員会を設立した大統領はこれでどんな短期の規制を課すべきか決定できる。そして、大統領は、暫定的処置としてCIAの権限と管轄範囲を劇的に縮小し、国家安全保障行動覚書によって、CIAが将来とりうる活動に厳重な規制をもうけたのであった。ケネディは覚書55号、56号、57号によって理論上CIAが戦争を遂行する能力を取り除くこと とした、CIAはピストルより破壊力のある武器が必要となる工作活動を禁じられる事になったのである。次ぎに控えるステップは過去のCIAの行動の調査がまっている、隅々まで調査され過去の不法行為が白日のもとに晒されれば何が出てくるかを十分に承知しているCIA高官にとって、それは悪夢以外の何者でもない。国家のリーダーとしての強い決意を持った野心的な大統領の手にかかれば、職員個々の人生が頓挫するだけではすまないのである。CIAにとって危険は明白であり、CIAの命運を事態の自然な流れに委ねる事は到底容認できないことであった、CIAの高官達は組織存亡の淵にたっていたのである。彼らは、共産主義に対する攻撃をすこしでも緩めようとする妥協的政策を、無知な政治家達の愚行と決め付けた。自分こそ国家の中枢だと思い込んでいたのがフーバーならば、現実に国家をうごかしているのは、自分達であると確信していたのが、CIAの高官たちであった。
CIAが手をうたなければ、1964年を境としてアメリカの内政・外交政策が大きく針路を変えることは、火を見るより明らかであった。CIA高官たちの眼前に、屈辱に満ちた日々が迫っていた、組織は粉々に砕かれ同僚の中には裁判にかけられる者も出るだろう。要人の暗殺を計画・実行して、捜査を形だけにとどめ、マスコミを思うが侭に操作する能力をもっているのは、唯一CIAだけである、彼らは状況を綿密に検討し計画を練った。ほとんど何をもとに判断しても、行動が必要という結論は変わらなかった。

ヴェトナム・キューバ政策と死

1963年10月ケネディはヴェトナムにいる1000の兵士、(遠まわしに顧問団と呼ばれていたが)を呼び戻すことを強く主張した。ケネディの特別顧問だったケネス・オドンネルはケネディは1964年の次期選挙の後、全アメリカ兵をヴェトナムから引き上げさせる計画をたてていたと証言している。また同じ特別顧問のアーサー・シュレジンジャーも同様のことを述べている。事実、ブラウディー大佐はヴィクター・クルラック少将と共に大統領命令によってヴェトナムに行き、米軍撤退後のヴェトナム情勢の研究に従事し、結果を報告している。そしてこのヴェトナム撤退計画の研究は国家安全保障行動覚書第263号として1963年10月2日に発表されている。この大統領令によって、アメリカのヴェトナム撤退計画は現実の政策として、動きはじめたのである。ブラウディによると、大統領は軍人の撤退のみに満足せず、アメリカ人全員の立ち退きを望んでいた、それはCIAの要員も含むものであった。CIAの中に絶望感が漂ったとブラウディは表現している、彼らは1945年からヴェトナムに居たのだから、皆猛り狂っていた。同様の反応はペンタゴンにも起こった、米軍機関紙「 スターズ・アンド・ストライブズ」はトップの見出しで”大統領は言う、1965年までにすべてのアメリカ人を退去させる!”と報じ軍当局の激昂ぶりをみせている。確かに、ケネディが1964年の選挙の後、アメリカ軍を東南アジアから撤退させなかったかもしれない形跡を見つける事は不可能ではない。手に入る限りの事実から判断すれば、ケネディは最終的な決断をしていなかったか、あるいは極めて高度な政治的な目的のために撤退するかしないか、相反するそぶりを見せたかのどちらかであったろう。そのどちらかにしても、彼がみせた公的な姿勢は、戦争の継続と拡大に努めてきた機関であるCIAにとって、決定的な判断の基準になった、事実ケネディの死後、ほとんど瞬時にして戦争は拡大したのである。さらにケネディはカストロとの秘密裏の交渉を開始している。事実その努力は大統領の死の当日まで続けられた、交渉の当事者としてケネディはウイリアム・アトウッドを指名している、彼は1963年12月にケネディとカストロが会談する可能性を引き出す事に成功している、そのような平和への交渉が実を結びつつあった1963年11月22日、カストロとアトウッドの代理人と してハバナに居たフランスの記者ジャン・ダニエルは、カストロの私邸にいて共に昼食を摂っていた、そこで二人は事件を知った。その時カストロはダニエルにこう言ったといわれている。「これは、悪いニュースだ。」「ダニエル、あなたの平和の使命は終わった。」と・・・・・
1963年11月22日、合衆国第36代大統領に就任したリンドン・ジョンソンはヴェトナム戦争のエスカレーションに踏み切った。わずか数年のうちに事件当時16500名の米軍兵士の数が50万人以上にも膨らみ、アメリカ人の死者が5万人以上、現地人の死者が100万人を超えるにいたって戦争はアメリカの敗北と言う結末をもって、ようやく終結するにいたった。ジョンソンはまた、カストロとの和解の努力を統べて中止させた、CIAはジョンソン政権下で保護されてきたが、やがて強化されていった。マングース作戦は新しい暗号名とともに鳴り響き、キューバ進攻部隊の熱狂的な生存者達が、CIAによって招集されゲリラ隊によるキューバ奇襲攻撃が再開された。CIAは勝ったのだ。独立心の強い大統領の手による不名誉な廃止に悩まされることも無くなった。代わりに死んだのは大統領の方であった。