本ページ開設の初期に暗殺事件とマフィアとの関わりに関して一項を設けた”暗部解析”である。当時はこのホームページそのものがこのように大きくなるとは予想だにしていなかった為、今読み返してみると極めて表面的な記述に終始している。(全般的に初期の項目全体に言える事ではありますが ^-^;;;)この事件を考えるにあたって絶対的に検証しなければならない分野の一つとしてこのマフィアとの関係は重要である。今回は”続暗部解析”としてマフィアと事件の関わりを紹介したい。

事件に見えるマフィアの影

ケネディ暗殺事件の真相を、アメリカ政府の総力をあげて徹底的に追跡、検証したとする「ウオーレン報告書」が、現在でもほとんど総ての人々から疑いの目で見られている理由は、つきつめていくと次の一点に落ち着いてしまうと思われる。つまり、この歴史的な大事件の背後にハッキリと見え隠れするCIAやFBI、さらには巨大な犯罪組織「マフィア」、そして亡命キューバ人グループの事件との関わりについての記述が、ものの見事に欠落していることにあると言えよう。多少なり事件に関わり情報を集めた人間であるのであれば、たとえ事件捜査にまったくの素人であってもその姿に注目する事が極めて自然であるにもかかわらずである。これらの組織のなかでひときわその存在が目立つのは何と言ってもマフィアの組織であることは認めない訳にはいかない、そのことは次のような事実を思い浮かべれば充分であろう。

@ 事件のほぼ一年前の1962年9月、大統領とロバート・ケネディ司法長官の厳しいマフィア退治キャンペーンに激怒し、復讐を誓ったニューオリンズのマフィアの大物カルロス・マルセロは、公然と暗殺事件の発生を予測していた。
A 1960年の大統領選挙で、多額の政治献金とイリノイ州での”得票工作”を請け負い僅差の選挙結果に多大な貢献をして事実上マフィアのこの工作によってケネディが当選したと公然と自慢していたシカゴマフィアの巨頭、サム・ジアンカーナが、ケネディ兄弟のマフィア一掃作戦を見て”約束違反”と激怒し事件をほのめかしていた。
B オズワルド一家、特に母親のマルガリータ、その姉の夫で、オズワルドが少年時代から父親がわりとして慕っていた伯父のマレットはそろってマルセロの指揮下にあった。
C ダラス市警のマフィアとの癒着は公然のものであり、ルビーが市警ビルにたやすく入り込めたのも市警のなかに内部協力者がいたと考えることが極めて自然である事
D ジャック・ルビー自身、シカゴからダラスに流れてきたマフィア系のやくざで、彼自身アル・カポネの使い走りをしていた事を自慢していた。この事はオズワルド殺害は暗黒街上層部からの指示にしたがったと考える事が自然である。
E ケネディの死によって大統領に就任したジョンソンは、上院議員時代、長年にわたってマフィアの政治献金を受けていた。
F 同様に、1960年の大統領選挙においてケネディの対立候補であったニクソンにはニューオリンズマフィアのマルセロが肩入れして、50万ドルの献金をニクソンにしている。その他にもニクソンとマフィアの関係は極めて深い物があった。
G 清廉潔白を売り物にし、アメリカの良心とまでも言われたアール・ウオーレン委員長さえもマフィア献金を受け取っていた事実が公表されている、同じ委員であったボックスも同様のスキャンダルにみまわれている。
H ウオーレン委員会を実質上支配していたのは実はフーバーFBI長官であったが、近年フーバーの個人的性癖をマフィアに押さえられ、脅迫されていた事実が報じられている。

事件とマフィアの関わりの存在を示唆するあれこれの項目をあげてみたが勿論これらの中には近年になってその事実が明るみに出た項目も含まれている。なかでも事件後11年たった1975年の「上院情報活動調査特別委員会」がおこなった聴聞会でまさに青天の霹靂のごとく飛び出した新事実は特筆に価する。

@ アメリカ政府高官の依頼を受けたマフィア一味がCIAと組んでキューバ・カストロ首相暗殺計画に従事していた事実(マングース作戦)
A 同じ頃、シカゴの首領サム・ジアンカーナが、ケネディ大統領との間で愛人ジュディス・キャンベル(後に結婚してジュディス・エグスナー)を共有していた事実

この二点がまったく疑いの無い事実としてあばきだされたのである。このような新事実が公表された以上、政府はウオーレン報告にとらわれずにまったく新しい角度から事件を再調査する義務があったと言えるのであるが結局時の政府は何の手も打とうとしなかった。その時の大統領は「ジェラルド・フォード」言うまでもなくウオーレン委員会のメンバーの一人であった。このような政府の緩慢な動きに対し、たまりかねた下院が動き出し、翌1976年「下院暗殺問題調査特別委員会」が発足し事件の再調査を開始した。この委員会の目的がケネディ暗殺事件の最調査にあることは誰の目にも明らかであった。そして最終報告において暗殺事件の背後にマフィアの存在を指摘して大きな衝撃を与えたのである。(下院暗殺問題調査特別委員会の項目参照)さらに報告書は、マフィアの首領達によるケネディ暗殺の可能性に触れているだけでなく、ニューオリンズの首領カルロス・マルセロとマイアミの首領サントス・トラフィカンテの二人の名前を公然とあげて陰謀疑惑に結び付けているのである

マフィアはなぜケネディ一族を憎むのか

それではマフィアがなぜ大統領を暗殺する陰謀にかかわるようになった可能性があると思われるのであろうか?このことを詳細に書く為には時計を事件から30年以上戻さなくてはならない。これらの詳細は、後日アップを予定している別項目”ケネディ王朝”にゆずることにしてここでは極めて表面的に時代を流していく。
ボストンアイリッシュの成功者ジョセフ・パトリック・ケネディ(大統領の父親)は彼の父親パトリック・ケネディのささやかながらボストンアイリシュとしては成功者の部類に入る事業を受け継ぐ。これがケネディ王朝のスタートであった、その事業とは「酒場」である。ご承知の通りその時代は1920年に施行された「禁酒法」の時代の真っ只中であった、そんな時代に父の事業は赤字の連続。多大な借財があった、しかし事業?の才能に優れたジョセフは1923年父パトリックの残した借財の総てを精算している。そればかりか次の狙いであった映画産業への進出にも十分な原資を手に入れている。言うまでもなくその事業とは「密輸酒」である。まさに映画「アンタチャブル」の世界に彼は活躍したのである、当然非合法の事業である以上マフィアとの繋がりが必然的に生まれた。この時からケネディ家とマフィアの繋がりがはじまったのである。禁酒法時代、名だたる全米のマフィアの首領達の半数は密輸酒に手を染めている。その中でジョセフの密輸に手を貸したのがフランク・コステロである。しかしこの時代のマフィアの首領達、コステロ・ルティアーノ・ランスキー達との非合法の世界での共存関係は長くは続かなかった、1933年禁酒法が廃止されると同時に彼らの共存関係は一夜にしてライバルへと変身したのである。全米の都会のバー・レストラン・ナイトクラブは勿論の事、場末の飲み屋にいたるまで各自が輸入代理店を勤める銘柄のウイスキーを置くように、熾烈なシェアー争いを演じたのである。ちなみに、ケネディ側の銘柄は「ヘイグ&ヘイグ」「デユアーズ」「ハウスオブローズ」などである。今度これらの銘柄を飲む時の酒話のオツマミにどうぞ。さて、禁酒法廃止と同時にジョセフとマフィアの対立は決定的となった、ジョセフは根っからの資本主義者ではあったが、正面切っての「経済人」ではなかった。したがって、マフィアの首領達が一団となって販売競争に圧力をかけてくると、これを深く怨んだと言われている。父ジョセフのマフィアに対する怨念は息子達に引き継がれる。ジョンは上院議員時代あるマフィア関係の聴聞会でこう述べている。「我々のルールは一つしかない、悪い奴等には手傷を負わせたりはしない。殺すのだ。」
ロバートの司法長官就任後のマフィア撲滅キャンペーンの凄まじさは語り種になるほどで、カルロス・マルセロの国外追放劇にいたっては司法省の敗訴といった結果になった程の荒業を使っている。伝記作家のジョン・デービス(ジャクリーンの従兄)はケネディ兄弟のマフィアに対する追求の背景の一端には、父ジョセフの怨念をそそぐ為と言った一面が存在すると述べている。
話を戻そう、ケネディ家の経済的基盤を酒で充分に築き上げたジョセフは1946年、ジョンがホワイトハウス入りをめざしてその第一歩を印した下院議員立候補にあたって息子の選挙戦への悪影響を心配してか、酒の事業から一切手を引いた。しかし、ジョセフとマフィアの関係は、これで終わった訳ではない。ジョセフは、コステロやランスキーとは対立したが、その次の世代の首領達、サム・ジアンカーナやジョン・ロゼリ達とは共存関係は維持していた。1960年、息子が懸命に大統領の座を追いかけている時もジョセフはマフィアとの接触をやめなかった。というよりは、息子を当選させる為にマフィアの協力を取り付けようと奔走していた。と言った方が真相に近いと思われる。ジョセフはニューオリンズのボス、マルセロに民主党大会の候補者指名選挙の際、ルイジアナの票の取り纏めを依頼したが、「自分はジョンソン支持を約束している。」と断られたが、シカゴの首領ジアンカーナはイリノイ州での協力を約束してくれた。ジアンカーナはジョンの大統領当選の為に非合法な献金をしたばかりか、イリノイ州の勝敗を決める結果(この州の勝敗が結果的にニクソンとの僅差の勝負に大きな影響を与えた)となったシカゴのウエストエンド地区での票の操作にも手を貸している。この事実はこともあろうに大統領暗殺事件の再調査をおこなっていた下院暗殺問題調査委員会の聴聞会において表面化した。大統領就任後一年ほど経った1961年12月のジアンカーナとロゼリの電話を盗聴していたFBIの記録の存在が明らかになったのである。

ロゼリ「シナトラのやつがジョー・ケネディと連絡取りましたぜ。やつら(ケネディ一族)が今後シナトラとの約束を忠実に守るってことをシナトラは親父(ジョセフ・ケネディ)の頭にしっかりと叩き込んだそうですよ。」
ジアンカーナ「てことは、献金がちゃんと届いたってことだな。」
ロゼリ「そうゆうことで。」
ジアンカーナ「つまり、今後オレがスピード違反をしても、やつらは知らん顔をするってことだな。」
ロゼリ「そうゆう事ですよ。兄貴」

もちろん、天下のマフィアの親分がスピード違反の見逃しを期待したわけではない。全米各地のマフィアの非合法活動にケネディ政権が目をつぶってくれるものと考えたのである。だが、これほどジョンの大統領当選に”協力”したとというのにケネディ政権は前例の無いほど厳しいマフィア退治を開始したのである。この事がジアンカーナにとって最初のケネディ一族の裏切りと映ったことは想像にかたくない。

ケネディのもう一つの裏切り

さて、1953年のイラン・モサディク政権、1954年のグァテマラのアルベンス政権を、それぞれ現地の親米勢力と組んで打倒した実績を持つCIAは、アイゼンハワー政権の意向を先取りする形でキューバのカストロ政権の消滅に向けて行動を始めていた。カストロが政権を樹立して一年と経たない1959年12月11日にアレン・ダレスはアイゼンハワー大統領に書簡を送り「アメリカ政府はカストロ首相のエリミネーションに十分な考慮を払う必要がある。」としている。エリミネーションとはあまり聞き慣れない言葉であるが、辞書によると「排除する、取り除く」となっているが、情報の世界ではこの言葉は「暗殺」を意味する事が多い。しかも万一当該文書が明るみにでたとしても字句通りの説明をすれば良いと言う利点がある。そして1960年夏極秘裏にアイゼンハワー大統領はCIAに対してカストロ首相の排除を目的とした作戦の開始を指示する「マングース作戦」である。この作戦の総括責任者にダレスは大物の部下のリチャード・ビッセル副長官を任命したのである。そしてビッセルはこともあろうに、その作戦の実行部隊に殺人のプロとしての「マフィア」の協力を依頼したのである。この事は政府の利益とマフィアの利益がまったく合致する事によるものでもあった。一夜にして錬金の街「ハバナ」を追われたマフィアにとってもキューバ奪還は夢であり、当然そのプロセスとしてのカストロの「排除」は自分達だけでも、できれば実行したい事であった。そこに政府のお墨付きが出たのであるから、正に願ったりかなったりであった。
ところで、この依頼は勿論ダレスが直接マフィアの幹部とあって依頼する訳ではない、この流れはすでに各種の調査委員会で解明されている。まずダレスの意向を酌んだビッセルは自分の補佐官としてシェフィールド・エドワーズ保安部長を充てた。さらにエドワーズはジェームズ・オコンネル作戦支援部長と協議のうえマフィアとの接触代理人として元FBIの職員で私立探偵をやっていたロバート・メイヒューと言う人物を指名する。メイヒューはカリフォルニアのボス、ジョン・ロゼリと接触してCIAの意図を依頼する。ロゼリはこの事をマフィアのドンとして君臨していた、サム・ジアンカーナに伝える。今度はジアンカーナが旧知のフロリダマフィアのボス、サントス・トラフィカンテを仲間に引き入れる。そしてこの三人のマフィアのボスが相談してそれぞれの手下達にキューバに居る知人の中からカストロ暗殺実行者を物色させるのである。この事は万一実行犯が逮捕されたとしても、ダレスまで全部で9段階にも及ぶ指揮系統を究明する事は実質的に不可能となる事を意味している。完全な「責任切り離し」である。余談であるがこのピラミッドの形はケネディ事件の捜査がオズワルドとルビーの線から一歩も進めない理由と考えるのは自分だけであろうか。
さてロゼリ・ジアンカーナ・トラフィカンテの三人組は様々な形でカストロ暗殺を計画するのであるが、本項では趣旨から外れるので割愛するが、決着マフィアの作戦はことごとく失敗に終わる。もっとも、この失敗の原因は、マフィアの手先達が無能であったからとばかりは言えない。キューバの政治・経済・民意、あらゆる分野に精通していたトラフィカンテは社会主義革命が国民の大半から支持されているキューバでキューバ人を使ってカストロを暗殺する事がいかに難しい事であるか、また、カストロを暗殺してもキューバ革命自体は消滅しない事を十分に承知していたと伝えられる。ではなぜ彼らはこれらの作戦に協力したのであろうか。それは、政府の情報機関に協力しておけば、司法省の厳しい追及を逃れられるという計算があったのである。事実、1975年の上院調査特別委員会がCIAのカストロ暗殺計画を調査した時、聴聞会に出席したCIAの係官は、「ロゼリがカストロ暗殺に協力した動機は”愛国心”からであった」と証言している。マフィア側からすればマフィアがアメリカ合衆国政府に恩を売ろうとしていた事は、半ば成功していたのである。そして彼らマフィアのボス達の脳裡にはアメリカ政府の為に「協力」したと言う自負だけがハッキリと残ったのである。
それにしても、その後、政権が代わったとたん司法省から手厳しい追及を受けるに及んで、これらのマフィア達がケネディ大統領やロバート司法長官に「裏切られた」として深く怨みを抱き、シチリア・マフィアの流儀に従って復讐を口にし始めたのは、ある意味では自然の成り行きだったとも言えるのである。

彼らは知っていたのか?

それでは、大統領と司法長官のケネディ兄弟は、大統領選挙において父親がマフィアに票の操作を依頼したり、CIAがマフィアの首領達の手をかりてカストロ首相の暗殺計画を進めているのを、具体的に知っていたのであろうか?もし、それらの事を知らなかったとしたならば、合衆国政府やケネディ個人に「貸し」があるのに、自分達マフィアを追求するのは裏切りだとする暗黒街の幹部達の怒りは「見当違い」ということになる。
この答えには、さまざまな説があり、歴史が証明した事実はいまだ確定していないのが現実であるが、私の答えは「ノー」、つまり知らなかった可能性が極めて高いと信ずる一人である。この結論に達する事実をあげてみよう。まず、選挙操作の問題である・・・
例のジアンカーナとロゼリの盗聴テープが公開される以前、すなはちFBIが実際に盗聴した1961年12月、このテープはフーバー長官の手元にあった。かねがね”若僧”の上司ロバートに顎で使われ、憤懣やるかたなかったフーバーは、このテープを半ば脅しに使ったのである。1961年12月12日フーバー長官はロバートに面会を求め、ジアンカーナが父ジョセフと三回に亘って接触したこと、さらに14日には、大統領選においてジアンカーナから秘密の政治献金が父ジョセフを通じてケネディ陣営に流れたこと、さらに、シカゴにおいて悪質な票の操作が行われた可能性が極めて高い事を通告したのである。(フーバーがその死の直前までFBI長官の地位に居ることができたのは、この様に歴代大統領や閣僚のスキャンダルを誰よりも早く入手でき、且つ又操作できる立場にあった事にあると言われている。)フーバーから父ジョセフの裏工作、それも自分が司法省の全組織を挙げて粉砕を誓っているマフィア組織と組んでの父の暗躍ぶりを、顔を見るのもいやな年長の部下から得意気に知らされたロバートの怒りはすさまじいものがあった。と記録されている。この話には後日談がある、フーバーからの通告に激怒したロバートはどこにも持っていきようの無いその怒りを、父ジョセフに向けた。1961年12月のある日(この電話の日時は特定されていないが、すくなくとも12月14日の二回目のフーバーとの会談以降、12月19日以前であったことはハッキリしている)73歳になって現役から一切身を引きハイアニスポートのケネディ家の別荘で余生を送っていたジョセフの元にロバートから電話が入った。ロバートの電話の内容は、国民から敬愛されているケネディ政権のイメージを父親が、息子達に相談もなく傷つけ、そのうえマフィアと言う巨大な社会悪の根絶を目指して寝食を忘れて奮闘している兄大統領や司法長官としての自分の努力を台無しにするとは何事か、といった怒りの言葉であった事は想像にかたくない。この電話の直後、1961年12月19日、父ジョセフは激しい脳卒中にみまわれ、以後一切口がきけなくなり、人の手を借りなければ動けない身体になった。ケネディ伝を書いたジョン・デービス、フーバー伝を書いたマーク・ノースをはじめとして多くの研究者は、このロバートの電話が引き金となってジョセフは病に倒れたと見ている。
さて、CIAとマフィアとの関係であるが、この間の事情を証言するのはCIA専属の弁護士ローレンス・ヒューストンである。1962年はじめマフィアの巨頭ジアンカーナを別の問題で司法当局が刑事訴追しようとしていたところ、CIAが何かと口を出してジアンカーナを保護しようとする。不審に思ってロバートは、ヒューストンを長官室に直々に呼んで問い詰めた。ヒューストンはとうとう言い逃れができなくなり、CIAが過去何年かにわたってマフィアの協力を得てカストロの命を狙っている事、ジアンカーナはその協力者の一人である事を打ち明けた。ヒューストンは後に議会証言をして、この時のロバートの怒りのすざましさを打ち明けている。ロバートは冷たい鋼のような目になり、顎をグイと引き、低いがよく聞き取れる声で「この次に犯罪組織と取り引きする時には私に連絡してくれるものと信じているよ」と言ったという。ヒューストンが震え上がったことは言うまでもない。だが、CIAは少しの間手を休めただけで、まもなく平然とカストロ打倒工作を再開したのであった。
ケネディ兄弟が、自分達の政権下でのカストロ首相排除計画そのものを知らなかった訳では勿論ない。この計画の遂行にあたってCIAがマフィアのボス達の手を借りていたのを途中まで知らなかったということである。ケネディ政権が1963年春に政治的和解を考慮し始めるまでの間、大統領以下の首脳陣がCIAや亡命キューバ人のなどの手を借りて、カストロ首相の「排除」に情熱を燃やしていたことは、いまではアメリカ外交史上の公然たる秘密になっている。